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 歩き出してから何分経っただろうか。リンから見える視界の全には木々しか見えず、時折どこからか動物の声も聞こえる気はするが、それ以外は特に何もない。

 ただ、そこらにある普通の森に見えるのだが……。

 武術を得意とする彼には、何か感じるものがあるのかもしれない。

 ―――昔、あの子も……黙って手を引いて頂上まで連れて行かれたことには驚いたけど、移動してなかったらあの兵士達に一番最初に見つかったと思うし……。何か、似てるな……。

 リンの瞳は、目の前を行くドルディノの背中が映っていた。

 ―――でも、さすがに……そろそろ理由とか話してくれても……。

 突然、リンの考えを見透かしたようにドルディノの足が止まった。そしてすぐそばに佇んでいた大木の方へ向かったと思ったらぐいっと手を引っ張られ、リンの体は勢い余ってドルディノの胸とぶつかる。

 ―――っ……!

 咄嗟に両手を胸について、くっついた体を引き離そうとするが、ドルディノの片手がリンの両肩に回ってぐっと抱え込まれ阻まれる。

 今やリンの心臓は破裂するのではないかと心配になるほど早鐘を打ち、顔は火照って体中には熱がこもっていた。

 心臓の音が聞こえたら嫌だ。

 赤くなっていることにも気づかれたくない。

 だから離れたいのに、両肩に回っている腕がそれを許さない。

 ならばせめてもと顔を俯け変化を悟られないようにするが、そうした途端頭上から囁き声が聞こえた。

 「……リンさん、急に引っ張ってすみませんでした。でも……もう少しだけ、このまま我慢してくださいね」

 その真剣な声色を聞いてリンが顔を上げると、その灰色の双眸はどこか遠くを見つめていた。

 彼の目線の先には一体何があるのか。それが知りたくて、リンの視線がドルディノが見ている方向を彷徨う。

 そうして自身の瞳に映った光景が信じられなくて、目を瞠った。


 硬い鋼鉄で身を包み鉄のぶつかり合う音を響かせながら、重たそうな足取りで草木の中を真っ直ぐ進んで行く者達が、そこには居た。何人引き連れて来たのか知らないが、重そうな足音は何重にもなって辺りに反響し、物々しい雰囲気で満ちている。その影響か、動物達の声が、ピタリと止んでいた。

 ドルディノは立派な大木の陰に身を隠し、兵士達の様子を窺いながら逡巡する。

 ―――一体、どこの兵士達が……そもそも、何しにここへ? 

 脳裏に、先刻会った小太りの男が思い浮かぶ。リンを侮辱し怖がらせた、あの男。

 ―――あの人がまさか……リンさんを攫おうとして、とか? 彼は、奴隷商人と繋がりがある人間だ。またリンさんを手元に置こうと考えて、私兵を差し向けてもおかしくはない……よね。森の方に向かったのは分かってても不思議じゃないし……。

 息を潜めて兵士達の動向を見守っていると、彼らはこちらに気が付くこともなく、列を乱さずにあっさりと森の奥へと消えて行った。

 「何しに来たんだろう……」

 「あ、のっ……」

 「あっ、すみませんっ」

 リンの声ではっと我に返ったドルディノは、素早く手を放した。

 「いえ……」

 少し顔を俯きがちにそう呟いたリンの姿を見て、その顔を覗き込み表情を知れたなら、という思いが頭を過る。

 が、それはおくびにも出さずに微笑み、改めて告げた。

 「そろそろ戻りましょうか。お頭さん達も心配しているかもしれませんし」

 「……はい……」

 

 そうして二人は、数十分かけて森を抜け、宿へ戻った。

 情報収集すると言って出掛けていた頭達は既に帰っており、二人が戻ると眉根を寄せて何か言いたげな表情をしていたが、もっぱら諌めてきたのはフェイで、説教は数十分に及んだのだった。

 一頻りしてお小言が終わったあと、タイミングを計ったように扉がノックされ、皆の意識がそちらへ向かう。代表してフェイが応答すると扉が開いて、宿の主人が姿を現した。

 その手には、温かそうな湯気を立ち昇らせている食事が乗った盆が握られている。

 「あ、どうもすみませんね~」

 そう言ってフェイがお盆を受け取り、次々と手渡されるそれを一つずつ船員達に受け渡す。そうして運び込まれた食事が全員分揃うと、店の主人はにっこり微笑んで口を開いた。

 「それでは、ごゆっくりー。へへっ」

 全員の視線が注がれる中扉はパタンと閉まり、主人の姿は廊下へと消えて行った。

 「よし、それじゃあいただきましょうかね~」

 フェイがそう呟いている傍らで、リンは宿の主人が消えた扉をじっと見つめていた。その姿をまた見ていたドルディノは、そっと声を掛ける。

 「リンさん……どうかしたんですか?」

 「……いえ……」

 そう小さい声で答えたリンの手は、胸元で握りしめられている。

 ―――何か、不安なのかな……。町で会った、あの小太りの男の人のせい……?

 そんなことを考えつつ様子を窺っていると、リンは下げている布鞄を下し中身を物色したあと、小さな薄緑の葉っぱを取り出した。

 何をするのか見つめていると、リンのほっそりとした指先が薄緑の葉を小さく裂いていき、それが五枚になる。

 ―――五枚……五人分?

 リンは千切った葉を傍でずっと見ていたドルディノに、一枚差し出してきた。どうするのか分からないまま出されたそれを受け取ると、リンは他のメンバーにも配り始める。

 全員の手元に渡ると、リンは自分の分を突然口に放り込んで数回噛み、ゴクンと飲み下した。

 「リン……」

 フェイが名前を呼ぶと、リンが答えるために口を開く。

 「ぼくが今したように、数回噛んで飲みこんでください。……用心にこしたことはありませんから」

 目を瞬いていた一同だったが、リンの行動の意味を理解し、それぞれが口の中に入れて胃に収める。

 それを見届けてから、リンはようやく食事に手を伸ばし、口に運び始めた。それを合図とするかのように他のメンバーも食事を摂り始める。

 ドルディノは数秒ほど料理を見つめた後で口に含むと、舌に乗せてゆっくりと、それを味わった。

 リンの懸念を重んじてのことだったが、特に気になる点はなく、あっという間に綺麗に平らげてしまう。

 リン自身は何か感じたことはないのかと思い視線を向けてみるも、特に変わった様子もない。

 ―――杞憂、だったのかな?

 それならそれでいい。何もないことが、一番だから。

 「お~いドルディノく~ん。リンも。どこで寝る~?」

 フェイの声が聞こえ目を向ければ、彼は中央に置かれてあるベッドに座っている、頭の側に立っていた。

 「僕はどこでもいいですよ」

 「そう? じゃあここでいいよね~」

 そう言ってフェイがポン、と叩いたベッドは、彼が立っている背後に置かれているものだ。立っていた位置的に、彼自身が頭の横のベッドを使うのかと思ったが、どうやら違ったらしい。

 「はい」

 そう答えて床に座っていたドルディノが立ち上がれば、続けてフェイは言う。

 「じゃあドルディノ君の隣の壁際がリンでいいよね~?」

 「分かりました」

 すんなり承諾したリンの声が聞こえ、ベッドに向かって歩き出していたドルディノの足が止まる。しかしその側をリンがすっと通り過ぎ、それを見たドルディノは再度足を動かしベッドへ向かった。

 数歩でベッドに辿り着くと、ドルディノはその端に腰を下した。ギシ、と軋んだ音が立つ。不意に天井を仰ぐと、一息つけた心地になって僅かな溜め息が漏れた。

 ―――何か、少し……疲れたなぁ。……ちょっとけだるい気がする……。

 ちらりと頭の方を見てみれば、彼は目を伏せ、大腿部に肘を乗せて頬杖をついている。

 ―――やっぱりお頭さんも疲れてるみたい? それはそうだよね、朝町に着いてからずっと情報収集してたみたいだし……。

 頭の奥に並んである二つのベッドはフェイとボッツが使用していたが、二人とも仰向けで横になっていた。その姿を見ていると、なんだか自分も眠たくなってくる。

 つい、うとうととして瞼を閉じそうになった時。

 「あー……例の話について、伝えておこうと思う」

 その頭の言葉で堕ちそうになっていた意識が引き戻され、閉じかけていた目を開けた。ゆっくり体を起こし、頭と向き合う。彼の背後に居るフェイとボッツも上半身だけ体を起こし、目はしっかり頭の背中を見ていた。

 居ずまいを直し、自分に向き合ったドルディノを見て、頭は口を開いた。

 「まあ、その怪物はやはり誰も見たことがない生き物のようだ。人のような大きさで長い尾を持ち、咆哮を上げ、攻撃するときは尻尾を振り上げると……そう聞いた」

 「色は……?」

 「色?」

 つい口にしていた疑問だったが、頭の訝しげな声ではっと我に返る。

 彼は少し、怪訝そうな顔をしていた。

 「ええと……毛の、色というか……見た目の……」

 誤魔化すようにそう言えば、頭はふむ、と小さく呟いた。

 「茶色、だったか。毛がどの状態なのかは知らん。何でもそれが凶暴で、出遭った輩は逃げ、遣わされた兵士達は皆撤退するそうだからな」

 「兵士、ですか?」

 「ああ。……なんだ、どうかしたのか?」

 「その……実は僕とリンさん、さっきまで森の方に居たんですが……」

 「何?」

 黙って話を聞いていた頭の眉が顰められ、彼の纏う雰囲気がピリピリしたものへと変わる。

 「と、遠くまで行ってないです! すぐ近くです!」

 何かを探るような視線を受け、慌ててそう付け加えるドルディノだったが、頭は目を細めてじっと見つめてくる。

 信用できるかどうか考えているのかもしれない。

 内心焦っていると、背後から助け舟が入った。

 「あの、本当です。森には行きましたが、奥には入ってません」

 リンの言葉に目を細めた頭は数秒してから、ふむ、と呟いた。

 「まあ、いい……だが、次からは勝手な行動を取るなよ。僅かなズレが、やがて大きな亀裂を入れないとも限らない。命の危険性すらもある。……気をつけろ」

 「はい」

 二人の声が重なって静かな室内に響いた。

 ドルディノは、気が引き締まる思いだった。

 頭の言う通りだと思った。自分の身勝手な行動のせいで、何が起きるか分からないのだ。

 もし、森に居た時見掛けた兵士達に自分達が見つかっていたら? 

 もし捕われたら?

 そうなっていたらと考えると、僅かな恐怖心が芽生えた。

 あの時、別行動をしていたお頭達に自分達の状況を伝える手段など、何もなかったのだから。

 ―――これじゃあだめだ。もう少しよく考えてから行動しないと……。

 ドルディノの心に後悔の念が押し寄せてきて、強く瞼を伏せる。

 「お頭~、もう寝ましょう~」

 間の伸びた声が聞こえ、ドルディノは目を開けた。さっきまで体を起こしていた筈のフェイは既に仰向けに寝転がっており、寝る準備は万端という風情である。

 「そうだな……」

 そう答えた頭は腰に携えていた剣を鞘ごと外し、頭もとの壁に立て掛けて自身も寝転がる。

 リンはどうするのかと気になり、振り返ってみると、ずっとドルディノを見ていたのか顔を見合わせる格好となった。

 「……ぼく達も、休みましょうか」

 「そうですね」

 話し掛ける前にそう言われたことが嬉しくて、微笑んで答えたドルディノは、室内にたった一枚しかない窓に目を向ける。

 そこから見える外界は既に日が落ちて、薄暗い。しかし、夜空を優雅に漂う雲の合間から覗く月が、柔らかな明かりをそっと窓から差し込ませ、周囲をほんのりと優しく照らしている。

 ドルディノは、郷愁溢れる双眸で、月を静かに見つめた。

 ―――こういう日は、よく窓辺から夜空を眺めたなぁ……今頃、城の皆も見てるかな? ……どんなに遠くに離れていても、見ている空は一緒なんだ。……あの子も、今頃この月を見てるのかな……。

 優しく照らす月明かりを見ながら、ドルディノはベッドに横になった。

 途端、疲れが溜まっているのかすぐに意識が沈みかけ、体も鉛のように重く感じ始める。

 やがて、室内には静かな寝息で満たされていった。


 キィ―――……。

 そんな音を耳が拾い、ドルディノはゆっくり瞼を上げた。

 床について、どのくらい時間が経ったのか分からないが、目の前がくらくらし、体も重たく感じる。

 手足を動かすのが、とても億劫だった。

 ―――何? これ……なんだか、変だ……!

 視界が回っているのだ。

 少しずつ、気分が悪くなってくる。

 耳に届く音は、徐々に大きくなってきている。ゆっくりと、しかし確実に近づいてくる何者かの気配と歩く度に響く軋む音が、ドルディノの中に焦燥感を生んだ。

 「……っ!」

 ―――っ……大きな声を出しては駄目だ、起きていることに気付かれる!

 左隣のベッドでは、穏やかな寝息が聞こえていた。

 リンは完全にまだ眠っているのだ。

 素早く顔の向きを変え頭の方を見ると同時に、ギシ、と音が立って黒い影が体を起こそうとしている姿が目に映り込んだ。

 「フェイ、ボッツ!」

 「起きて、ます……! でも、体がっ……思う様に動かない!」

  声を極力出さずに交わされる言葉。

 「っん、……?」

 「リン! 起きたか!」

 「え、……っ!? か、体が……!」

 騒がしくなったのを敏感に察したのか、リンも目が覚めたようだ。しかしその言葉を聞いて体が動かないと知り、ちっ、と舌打ちをした頭は立て掛けておいた剣を手に取る。

 が、その動作はいつものように軽々としたものではなかった。まるで、重りが体にぶら下がっているかの様に、一つ一つの動きが遅い。

 「っ来るぞ!」

 頭のその叫びはもう音量を抑えてなどいなかった。

 彼が叫んだと同時に勢いよく開かれた扉から数人の男達が踏み込んで来て、あちらこちらから下卑た笑い声が響く。

 「おっとぉ……! 起きていやがったかぁ……。まあいいさ……ククク。たっぷりヤクが入った飯はうまかったかぁ?」

 ―――なっ……! 道理で……!

 瞬間、ガシャン! と甲高い音が響く。

 頭が鞘に収まったままの剣を床につき、それを支えにして、ふらふらで今にも倒れそうな体で立っていた。

 「お前達……何者だ! 宿の主人はどうした!?」

 怒鳴るような頭の言葉に返ってきたのは、嘲笑だけだった。誰一人として、まともに話そうという気を持っているものはいない。

 「……ドルディノ、動けるか……」

 何かの覚悟を決めたような、重苦しい声色が頭の口から漏れた。

 問われたドルディノは素早く四肢の動きを確かめる。

 先刻よりは体の動きがよくなっていた。どうやら仕込まれた薬とやらの効果が薄くなり始めているようだ。

 「いけます」

 力強さを含んだ言葉を発しながらもその鋭い目つきで入って来た賊達を見据えるドルディノに、指令が飛ぶ。

 「リンを連れて逃げろ!」

 「っ!?」

 「そう易々と行かせるかあああぁぁぁぁぁぁ!!」

 ガキィン! と鉄のぶつかり合う甲高い音が室内に鳴り響いた。それを合図とするかのように残りの男達が次々に頭に向かって襲い掛かる。

 「はああああああああ!!」 

 空気の切り裂く音が聞こえた、次の瞬間。

 「ぎゃあああああああああああああ!!」

 月の光に照らされ鈍い輝きを放った剣が振り下ろされ、男の体を斜めに斬り裂いた。間髪入れずに上がった絶叫。

 ずしん、と重たい音を立て床に倒れ込んだ男は既に事切れたのか、ピクリとも動かない。

 思う様に動かせない体で剣を振るった頭は肩で息をし、その手に握られている獲物の刃は、月明かりで照らされた赤い液体が不気味な光を放っていた。

 不意に訪れた静けさは緊迫した空気をより一層深め、ピリピリとしたそれが肌に痛い。一言でも言葉を発しようものなら、新たな戦いの火蓋が切って落とされるだろう。

 喉を鳴らして唾を飲み下したドルディノに向けて、頭の怒号が飛ぶ。

 「行けえええええ!!」

 叫んだ頭が剣を振るって荒ぶった声を上げ襲いかかった男の体が切り裂かれるのと、ドルディノがリンを抱えて窓に体当たりするのはほぼ同時だった。

 ガシャーン! とガラスが割れる音が轟ぎ、外界に向かって宙を舞う幾つもの破片は月の光で燦々と輝きを放つ。ドルディノの体は宙を踊り、その耳に届く喧騒は地面との距離が縮まるにつれ遠くなっていく。

 ドン! と大地を震わせて着地したドルディノの足は即座にその地を離れ、勢いよく風を切りながら飛ぶように駆け出していた。

 回る視界で全速力で駆けるドルディノは足がもつれそうになりながら、リンを抱えたままそうしてその身を鬱蒼とした森の中へと投じたのだった。

最近不調が続いていまして、遅れてしまいました。 これから先も遅くなるかもしれませんが、出来るだけ早く皆様のお目に掛かれるようにしていきたいなと思っています。 読んでくださりありがとうございました。

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