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男の唇の隙間から覗く歯は、所々金色に輝いていた。
これほどいやらしい笑顔を今まで見たことがあるだろうか。咄嗟に、この男と距離を置きたい気分に陥る。
男とリンとの距離を取らねばならない気持ちになったドルディノは、肩に回している腕に力を込めるとゆっくりとした動作で、一歩後ろに下がった。一瞬リンの足がもつれそうにはなったが、転倒は免れる。
男は未だにいやらしい笑みを浮かべながら、二人の足先から頭の上まで抜かりなく、全身を舐めまわすような視線を寄越してきていた。
その時、ふとリンの体が僅かに震えていることに気が付いた。
一つ気が付けば色々な事が目に映るようになってきて、ほんの少しだけフードの隙間から覗く頬が、いつもより青ざめていることに気付く。
短く浅い呼吸を息苦しそうに繰り返し、心底怯えているように見えることにも。
今すぐに気絶しても不思議ではないリンの状態に焦燥感を覚え、すぐにでもこの場を去るべきかどうか思考を巡らせる。
すると、決断を下す前に男が再度口を開いた。
「またこんな所で会うなんてなぁ……? ワシらは切っても切れない縁がありそうだ……なぁ」
そう言って男は、短くて太い指先をリンへと伸ばしてくる。それを目にした瞬間リンの肩がビクッと跳ねたのを感じたドルディノは、男の手を遮るためリンの顔を隠すように真っ直ぐ腕を伸ばした。
「それ以上近づかないでください」
断固とした意志が宿った言葉だった。
邪魔をされ指先を引っ込めた男は軽く舌打ちをした後、しかしいやらしい笑みを浮かべる。
「なぁ……このお坊ちゃんはお前の新しい主人かぁ? こんな金のなさそうな痩せっぽちよりワシの元に戻って来んかぁ? たっぷりと可愛がってやるから……」
―――なっ……この人、何言って……! 僕が新しい主人って……その言い方じゃあまるで、リンさんが……。
先刻よりリンの震えが酷くなったのを感じ、ドルディノは男の言葉が虚言でない事を悟ると同時に、自分の推測も間違ってなかったことを知る。
―――リンさんが……奴隷にされてたなんて……!
「っ……!」
その時、腕を振り払われた感覚がドルディノを襲った。
気が付けば今まで腕の中に居たリンは駆け出していた。小さくなっていく背中を慌てて追いかけるドルディノの背後で、男の野太い笑い声がいつまでも響いて聞こえた。
リンが走り出し、すぐに追いついたドルディノは咄嗟にその手を握りしめた。
「リンさん! 待ってくださ」
「放してっ!」
ぶん、と勢いよく振り払われる腕。
リンの行動に目を瞠り、驚きを隠せないまま、茫然と見つめる。
「一人にっ……させてください!」
そう言って駆け出したその手を、ドルディノはまた掴んで止めた。ほぼ同時にリンが振り返りざま口を開き―――……ドルディノは言葉を遮るように叫ぶ。
「僕は!」
驚いたのか、リンが口を閉じ二人の間に沈黙がおりた。その隙を見逃さず、ドルディノは間髪入れずに続ける。
「僕は……、あなたが心配なんです。だから……。 ……何もしません、近すぎないように離れて歩きます。邪魔はしません。だから……、だから、傍にいることだけ、許してください」
リンの掴んだままの手に、ぎゅ、と力が入る。
どんな返事が返って来るのか緊張し、心臓をどきどきさせながら待って数秒後。ドルディノの手に、温かく柔らかいものが触れた。それはリンの自由なもう片方の手だった。それで自分の手首を掴んでいるドルディノの手をそっと外すと、俯いたまま身を翻し、歩き始める。
言葉はないが、同行を許してもらえたと感じたドルディノは、その背中を追い掛けて歩き出す。
リンは無言でどんどん歩いて行き、とうとう町をでた。それでも真っ直ぐ突き進んだ先には豊かな森林が広がっており、リンは躊躇することなくその中へ足を踏み入れる。
当初とは違う目的のまま森の中へ入り込み、周囲を警戒しながらドルディノはリンの背中をひたすら追い続けた。
暫くすると視界に少し開けた場所と、小川が映った。リンもそれに気が付いているのだろう。先にその場所に出たリンは穏やかに流れていく小川の縁に立ち止まり、じっと佇んでいる。
ドルディノは、その場所に出る直前で足を止め、側にあった太い大木に寄りかかった。その表情は少し不安そうで、瞳は一心にリンに注がれている。
「……っ……ふ、ぅっ……!」
その何かを耐え忍んでいる、今にも消え入りそうな震え声が聞こえてきて、胸が押しつぶされるように苦しくなった。
できることならその悲しみを癒してあげたい。
分かち合って、辛さを軽くしてあげたい。
そう思ったが、今は、傍に行くことはできない。
すぐにでも駆け出して傍に行きたい気持ちを堪え、リンの僅かに震えている肩を、小さな背中を、ドルディノは泣き声が止むまでただ、じっと見守り続けたのだった。
どのくらい時間が経ったのだろうか。
ドルディノが瞼を閉じ、しかし周囲を警戒していた時、かさ、と足音が聞こえて目を開く。
「あ……」
小さくリンが呟き、そして素早く顔を逸らした。
少し気まずいのだろう。
ドルディノは気にしていないことを伝えるため、わざと明るく話し掛ける。
「来ちゃいましたね、森に」
「え……あ……」
たった今気が付いた、とでもいうような反応を返したリンは、周囲に視線を走らせた。
小川を流れるせせらぎが穏やかに響き、そよ風でさわさわと木々が揺れてメロディを奏でる。天を見上げれば青空が広がり、そこから柔らかに降り注ぐ陽光は温かく、心地がいい。大地の乾いた香りと木々の独特なそれが風に乗って漂ってくることも、先刻までは気付く余裕もなかった。
「そう……ですね……」
リンの口から自然に、穏やかな感情を含んだ言葉が流れ出た。
声の調子が戻っていることに心から安堵したドルディノは、優しく微笑んで囁くように言う。
「宿に、帰りましょうか」
「あ、……はい」
承諾の言葉を耳にして、ドルディノはゆっくりとした動作で踵を返す。そうして一歩足を踏み出した時。
「あのっ!」
リンの声が聞こえ、背後を振り返った。
「その……、何も、訊かないんですか……?」
何のことかは、訊き返さなくても分かっていた。先刻の男のことだ。
ドルディノは、うーん、と唸り声を上げ少し考えてから、口を開く。
「そうですね……気になりますけど、簡単に話せることじゃないと思いますし」
誰にだって、知られたくない事はあるだろう。
ドルディノ自身、竜族である事を口外したことはないし、しようとも思わない。まあ、その正体を明かさないのは、国家機密という事もあるが、自分が吐露することで国にもその影響が起こるかもしれないからだ。
それは自分の望むところではない。
―――それに、シードに怒られそうだしなぁ……。
ドルディノの脳裏に、自分がシードにガミガミ言われている所が浮かんだ。また、その構図を面白そうな顔で静観しているマルクスの姿も頭を掠め、思わず苦笑する。
「僕は……思い出して辛い話を、無理して訊こうとは、思っていません。でも、いつか……リンさんが話してもいいかなって思った時に聞かせてくれたら、嬉しいです」
そう言って微笑むドルディノに、午後に傾き始めている茜色の日が木漏れ日となって柔らかに降り注ぎ、頬を朱色に染めていた。木々の間を通り抜けてきた穏やかな風が葉擦れの音を運び、二人の肌を優しく撫でる。
二人を包み込んでいた優しい空気。
しかしそれは、次の瞬間には消えてなくなっていた。
「ど……うか、したんですか……?」
何かを訝しんでいる様子であらぬ方向を見つめているドルディノを目に映し、そんな言葉がぽろりとリンの口から漏れた。先刻までの穏やかな表情が強張ったものへ、がらりと変わっている。
「静かに……」
そう言ったと思いきやドルディノはリンの手首を掴んで、どこかへ向かって歩き始める。
「えっ、ちょっと、あのっ……」
ドルディノに引っ張れるように森の中を歩き出し、足が固いものを踏んで、パキ、と乾いた音が響いた。しかしそれも草の中を突き進む際に響く葉擦れの音で掻き消されていく。
カサカサと森を掻き分けて進む音だけがひたすら響き続ける中、リンは自分を引っ張って前を歩くドルディノの背中を、見つめていた。
こんなことが、昔もあった気がするのだ。
それは―――……いつだった?
脳裏で過去の記憶を手繰り寄せ、絡まった糸を一つ一つ解いてゆく。そうして最後に残った記憶の欠片は、思い出したくないものと繋がっていた。
幸せだった日々が粉々に打ち砕かれ、当たり前のように過ごしていた時間はかけがえのないものだったのだと、思い知った日。
それが起きる、直前。
ある日目が覚めたら傍に居て一緒に時を過ごした、名前も知らない少年。
彼に手を引かれ、森の中を歩き回った。
丁度、今のように。
リンの意識が、前を歩くドルディノに向かう。
そうして、思い出の中の少年と、僅かに重なって見えた。




