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太陽が、完全に地平線の遥か彼方へ身を沈め辺りは一層暗さが増したその中を、ぼおっと座ってドルディノは夜空を眺めていた。先刻までは見えなかった煌めきも、今では点々と浮かんでいる。 たまにはこうして、ただ夜空を眺めるのもいいなと思う反面、それは建前で、本当はあの部屋に戻りにくいから逃げているのだということも、ちゃんと解っていた。
溜め息しか出ない。少し、フェイが恨めしかった。何もあんなに堂々と言わなくてもいいのに、とつい考えてしまう。
そして、そんな風に思う自分自身も、嫌な奴だと……。
「……はぁ……」
ドルディノの唇から、溜め息が一つ漏れた。
と、その時。
「……バカみたい……」
リンの囁き声が聞こえ、慌てて視線を走らせる。すると、各部屋を繋げている廊下に行くための入口に、黒い影があった。
その人は、確かにリンだった。
しかし、見つかったと思ったのかすぐに踵を返し、来た道を戻って行く。その小さくなる後ろ姿を茫然と見つめながら、脳裏ではリンの言葉が何度も反芻されていた。
ショックを受けていた。
普通の人なら聞こえるわけがない、囁き声だった。
だから、ついぽろっと出た言葉なのだろうか。
―――……でも、そんなことを言う人じゃないって。……思いたい。
はっきり断言できるほど、まだリンの事を知らないのだ。
顔すら。
―――もしかしたら、僕の事じゃないかも、しれないし……。
若干、自嘲気味にも、聞こえた。……気がするのだ。
それは、自分の願望だろうか。
そうであって欲しいという。
―――……分からない……。
考えてもきりはない。
本人に訊かなければ、真実は分からないままだ。
しかし、あの距離だ。聞こえたと伝えるには、あまりにも人離れしている。
ドルディノが取れる選択肢は、最初から一つしかない。
重い溜め息が口からこぼれ落ち、それは闇夜に溶けて、消えていった。
カーン、と鐘の音を耳が拾い、ドルディノは瞼を開けた。
目に飛び込んで来たのは扉だが、室内は明るい。そっと体を起こすと、背後から声が掛かかる。
「おはよ~」
「あ、おはようございます」
にこやかな表情のフェイに微笑んで応えたドルディノは、彼の背後に誰も居ない事に気が付いた。
―――あれ? お頭さんがいない。
疑問が顔に出ていたのか、何も訊いていないのにフェイが口を開いた。
「お頭は甲板だよ~。丁度いいタイミングで起きたね~」
丁度いいタイミング? と考えていると、廊下の方から誰かの足音が聞こえてきた。周囲に視線を走らせ、リンが定位置に座っているのを確認すると、一言挨拶してから扉の方を振り向いた。それとほぼ同時に開け放たれた扉から昨夜とは違う男性船員が姿を見せ、フェイと二、三言交わしてから、朝食が乗ったお盆を二枚置いていく。
でかでかとした皿の上に、白く丸いものが五つ、山のように積まれていた。もう一枚のお盆に乗ったお皿の上には、一本の短い茎に赤色の小さく丸い粒が細長く密集し垂れ下がっているものが人数分並べられている。
―――何かの果実? 初めて見るなぁ。
じっと見ていると手が伸びて来て、一房ほど皿から攫って行く。目で追うと、フェイが天を仰いで口を開けていた。唇から茎だけ飛び出した状態で赤い粒達を咀嚼するフェイに習って、同じように口へ運んでみる。見た目は固そうな粒だったが実際は柔らかかったようで、噛むとあっという間に潰れ、舌に味が広がった。途端、眉根を寄せ口元を引き結ぶ。
―――酸っぱい!
湧いた唾が僅かに酸味を緩和してくれるが、全然足りない。酸っぱさを紛らわせようと、慌ててもう片方の皿に盛られている、白い丸いものへ手を伸ばし掴むと、かぶりと齧り付いた。
酸味が薄くなると同時に、今度はパン生地と一緒に、歯応えがあまりなく柔らかいものを噛んだ感触がした。
―――不思議な感触……なんだろうこれ。
「じゃあ、おいらこれ頭に持ってってくるから~」
そう言って素早く立ち上がったフェイは、朝食を一緒くたにしたお盆を片手で持ちながら「じゃね~」と言い残し、軽快な足取りで扉を開け、出て行った。
部屋に残された二人の間に、沈黙が落ちる。
フェイが姿を消すと即座に昨夜のリンが漏らした言葉が脳裏で反芻され、気まずく、何と声を掛けたらいいか分からなくなっていた。
―――いや、そもそも嫌われているとしたら……声を掛けない方が……いいよ、ね……。……フェイさん早く戻って来てくださいー!
沈黙の重圧に耐えきれそうもなく、心の中で叫び声を上げるが、それが彼に届く筈もなかった。
それから永遠とも思える時を数分過ごすと、待ちに待ったフェイが戻って来た。敏い彼はすぐ、二人の間に漂う重たい空気に気が付いただろうが、それに関しては触れもしなかった。
「さて、行こうか。そろそろ出発だよ~。忘れ物とか一応確認してね~」
その言葉を聞き、しみじみと思うことがある。
―――……フェイさんって、面倒見がいいよね……。
もしくは、船員メンバーの中では自然にそういう役割になってしまうのかもしれない。
脳裏に船員メンバーの顔ぶれが浮かび、少し納得する。
とはいっても、殆どフェイとしか関わりを持てていない気もするが。
フェイに連れ立って甲板に出ると、燦々と陽光が降り注ぐ甲板の船縁に頭とボッツが立っていた。彼らの側には大地へと繋ぐタラップが掛かってあり、メンバーが揃うのを待っていたことが窺い知れる。
甲板の上を歩く足音か、気配かで気が付いた二人が一斉に振り返り、目線が合うと、頭が口を開いた。
「来たか。では行こう」
そう言って颯爽とタラップの上を降りていく頭の後を追い、足が一日ぶりの土を踏む。
緑豊かな国というだけあって、周囲は降り注いでいる陽光でキラキラと輝く、美しい草原が広がっていた。しかし黄緑色の草花だけではなく、奥の方には鬱蒼とした森も見えており、そのせいか、そよ風に混じって草木の濃厚な香りが漂ってくる。
さわさわと揺れて立つ葉擦れの音が、聞いていてとても心地良い。
心が洗われるようだ。
風に身を任せていると、頭の声が聞こえ、無意識に閉じていた瞼を開けた。
「町は丘を登った所にあるそうだ。歩いて行く。今日は宿を取って、例の件についての情報を集める予定だ」
そう告げると、振り返りもせずに歩き出した頭の後を、ボッツ、フェイ、リン、最後にドルディノの順で道なりに沿って丘を登って行ったのだった。
町の入り口には木で作られたアーチがあった。
アーチの真下から奥に続いて、手入れをされた一本の細長いあぜ道が作られていた。その道なりに沿って白い軒並みが続いており、それらは降り注いでいる陽光に包まれ輝いて見える。
あぜ道を歩き出すと、外で駆けずり回っている子供の声や、遊んでいる子供達に注意を促したり、あるいは井戸端会議を開いている老若男女のそれが、あちらこちらから風に運ばれ耳に入ってくる。その中には、自分達の事を話しのネタにしているような囁き声も混じっていた。
噂話をされ慣れているのか、抑揚を抑えているのにも関わらず聞こえてくる話し声を気にした風もなく、颯爽と歩き続ける頭達に軽い尊敬の念を覚える。
砂利を踏みしめる音を響かせながら暫く歩くと、先に宿の看板を掲げている建物が目に映った。躊躇なくその中へ突き進んで行くメンバーの背中に続いて、宿屋へ入る。
入り口すぐには小さいカウンターが造られており、そこに店の主人と思われる中年の無精髭を生やした男性が立っていた。泊ると聞いて目を輝かせた主人は頭とやり取りをした後で、廊下奥にある階段を上がった先の部屋に案内した。
室内に視線を走らせ、小さいテーブルと椅子、そして人数分の簡易なベッドがあるのを確かめると、扉の外に立っていた主人を振り返って、頷いた。
「この部屋を借りよう」
「ええ、どうぞうどうぞ……」
両手をもみ合わせ、満面の笑顔で言った主人の言葉に再度頷き返した頭は、扉の反対側の壁に一枚だけ作られてある窓まで歩み寄り、外を見渡し始める。
「ではごゆっくり……」
そう言った宿屋の主人は扉を閉めると、靴音を響かせながら、階段を下りて行った。
主人が居なくなったことで緊張感が緩み、肩の力が抜ける。それは他のメンバーも同じだったようで、早速好きなように動き始めた。
この部屋の唯一の扉である方向へ歩き出したボッツに気が付いた頭は、一言めで彼を制止する。
「待て。大事な荷物は持って行け。フェイと私は情報収集しに出かけてくる。お前はどうする? ボッツ」
頭の声で足を止めていたボッツだったが、話を聞き終わるとゆっくり振り返った。
「では、俺も情報収集に」
そう言うボッツの身に纏っている薄手の服は薄汚れており、彼自身も無精髭を伸ばしているため、小汚いイメージしか湧かない。
そんな彼が情報収集とは、大丈夫なのだろうか。
「ああ、そっちは頼んだ」
意外に、頭の掛けた言葉は信頼の厚いそれだった。
どこに行って情報収集するのかはさっぱり見当がつかないが、おそらく今までこういうやり方でやってきているのだろう。
承認を得たボッツは静かに扉を開け、室内から姿を消した。
「じゃあ、おいら達も行きましょうか、お頭」
「ああ。お前達はここに残って荷物番だ。ああ、それと何か異常事態に陥った時は、各自で船へ戻れ。ダグネスのな。それが決まりだ。……以上」
そう言うと、二人は連れ立って扉の外へと姿を消した。
一気にリンと二人きりになってしまい、緊張で体が固くなり無意識に湧いた唾を飲み下す。
室内には、喉を震わせて唾を飲みこむ音さえも、大きく響いた。
しーんと静まり返る中で、ドルディノは焦燥感に駆られていた。
何を話そうか、何を糸口に口火を切ればいいのか、そんなことばかりが頭の中を占める。
声に出さず心の中で頭を捻っていると、小さな声が、耳に届いた。
「……あの……昨日は、ごめんなさい」




