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「ぶふっ……くっ! ……っふはははははははは! ぁ……もうダメ! どうして君ってそんなに面白いのっ!? あはははははははは! ああもうダメお腹痛い!」
宛がわれた室内の中に、フェイの笑い声が響き渡る。
ドルディノは、彼が床に笑い転げお腹を抱える姿を、苦笑しながら見つめていた。
それは、遡る事数十分前。
宛がわれた部屋にも影響があったであろう大きな揺れにより海に投げ出された後、ドルディノは船員によってすぐさま救助された。
着ていた衣服は海水を含み、まるで鉛のように重くなってしまった挙句水が滴り落ちていた。それを見兼ねた船員の配慮によって薄手の服を借してもらい、それを身に付けて部屋へ戻ったのだ。
そしてフェイが、戻って来たドルディノの姿を見て開口一番に言った言葉が「何があったの~?」だった。
それはそうだろう。
何しろ、出て行った時とは違うものを身に纏い、片手には自前の服が握りしめられ、頭からはポタポタと滴が滴り落ちていたのだから。
ドルディノは先刻起きた揺れのせいで体調を崩した客人の一人が、自分にぶつかった事とそれによって海原へダイビングしたことを説明した。それを聞き終わった途端、フェイが吹き出したのだ。
その姿を横目にしつつドルディノは、船員に借りた頑丈な糸を部屋の壁に嵌め込まれてあった鉤のようなものに巻き付け、海水を絞り出したあとの服をそれに掛けたのだった。
そうして、今に至る。
三人が見守る中でフェイが一頻り笑い終わった後、扉をコンコン、とノックする音が響いた。
「はい」
一番近くに居たドルディノが扉を開けると、そこに立っていたのは二人の男性船員だった。両手にそれぞれ木製のお盆を持っており、その上には湯気が立ち昇っているお皿が並んでいた。
夕食のようだ。
ドルディノが扉をほぼ全開にして脇に退くと「あ、どうもっすー」などと言いながら室内へ入り、お盆を五つ床に置く。
「夕食ですー。あとで回収しに来るんで、食べた後は部屋の外にでも置いといてくださいー。ではごゆっくりー」
そう言い残すと、二人の船員は足早に部屋から出て行った。
颯爽と消えていった船員達を見送ったあとお盆に乗っている食事に視線を落とすと、でかでかとした長方形のパンに目を奪われる。他には黄色いスープと大きめに切った野菜を何かのタレで和えたものと、数切れほどお肉が並べられていた。そして、お水。
視線を上げ、頭とフェイの顔を交互に見やると、それに気が付いたフェイがにやりと笑いながら言った。
「……どうしたの~?」
「あ、いえ……ボッツさんがいないので……」
「あぁ……あいつはいつもこんな感じだから気にしないでいいんだよ~ね、お頭?」
「そうだな」
そう即答した頭は、躊躇せずにお盆に手を掛けた。胡坐をかいた上に乗せ、お盆に乗せてあるフォークを右手で掴むと、料理を口へ運び始めた。それを見てフェイも床に置かれたお盆からスープ皿だけを取り、口に付ける。
―――いいのかなぁ……。
ボッツの事が気になるが二人は一切気に留めずにさくさくと食べている。
その様子を暫し見てから、ドルディノは心の中で頷いた。
―――食べよう。
二人は、胡坐をかいて食べている。
ドルディノはそれに習って、自身も胡坐をかいて食べることにした。
お盆を両手で足を組んだ大腿部に乗せ、頭のようにフォークを手に取ると、淡い緑色の野菜にぷすりと刺し、タレに絡めて口へ含んだ。
―――あ、野菜歯応えあるしタレはさっぱりしてて美味しい。
そんなことを思いながら咀嚼し、フォークを置くと存在感のある栗色のパンへ手を伸ばす。両端を両手で掴んで中央を割り、裂かれたパンの断面を覗くと何の変哲もなく、ただ白かった。
香辛料や甘味剤になるような果物などは一切使用してない事が窺える。
ドルディノは、パンの真っ白な断面を見つめながら思わず溜め息を漏らした。その心は、幼き頃リアン達と共に過ごした日々へと馳せていた。
パンを見る度、懐かしさと会いたいという気持ち込み上げ、それで埋め尽くされる。
もう一度、無意識に溜め息をついた所に、フェイの声が掛かった。
「……ねぇドルディノ君。無理して食べなくていいんだよ~?」
「……え?」
いかにも意味が通じてなさそうなドルディノの様子を見て、フェイは続けて言った。
「パン。……味気ないから、溜め息つきたい気持ちもわかるけど~」
その言葉の意味を理解した途端、それまできょとんとしていたドルディノの表情が一変した。大慌てでパンを持ったまま激しく両手を振り同時に大きく頭も振る。
「ちちち違いますよ! ちょっと昔の事を思い出してて……!」
「なぁんだ~そうだったの~? ふぅん~……暗い顔してたから単に不味いのかと思ってた~」
「ははは……」
フェイの言葉には苦笑で応え、仕切り直してパンを指先で千切り、一切れを口の中へ放り込む。
―――厚いなぁ……これ。
そして、なんとなくリンへ視線をやった。リンは、最初この部屋に足を踏み入れた際に座った場所―――……つまり、ドルディノの左隣に腰を下して食事を取っていた。大きなパンを少しずつ千切っては口に入れ、水を飲んでパンを流し込んでいる。
千切っては口に含み、水を飲んで咀嚼し、飲み下して……。
ドルディノは、パンを食べるリンの姿を、無意識にじっと見つめていた。
己の口の中にあるパンを咀嚼するのも忘れて。
そんなドルディノの様子に気が付いたのは頭が先だったが、彼は食事を食べ終えた後も静かにその姿を静観していた。次いで食べ終わったフェイも、ドルディノが手ばかりか息すること以外を忘れ、穴が開くかと思う程、ただただリンの食べる姿を見つめている様子に唖然とし、暫し掛ける言葉を無くした。
いつまでリンを見続けるつもりなのか。
そんな疑問が浮かんだのは、自然なことと言えるだろう。
フェイは頭を一瞥し何も言う気がないことを悟ると、己自身も静観することにし、二人揃ってドルディノに視線を注ぎ始める。
が、それも長くは続かなかった。
ドルディノの表情が、また変わったからだった。
フェイは思わず、声を掛けた。
「ドルディノ君……」
名を呼ばれたドルディノは、はっと我に返った。まるで長い眠りから覚めたかのような心地だった。
慌ててフェイに視線を向けると、彼は驚いているような表情をしていた。
「はい……?」
不思議に思いながらそう訊くと、フェイはふっと柔らかい笑顔になった。
それは、今まで見た笑顔とは違い、本当に、優しい……まるで、母親が子供を温かい目で見守るような、そんな表情だった。
「……何か……また、思い出してた……?」
「えっ。ど、どうして……です、か……?」
フェイは微笑んだまま、口元を覆うと、視線をリンへ向けた。
リンは、会話が聞こえているのかいないのか、パンを一生懸命咀嚼し水を飲んで飲み下している。その成果もあって、その手に収まっているパンはあと残り一切れの様だ。
目を細めたフェイはドルディノに視線を戻すと口元を覆っていた手を下し、笑顔を湛えたまま小さな声で言った。
「……だって、もの凄く……愛情のこもった優しい顔で、リンを見てたから」
「……ぇ……?」
自分の名が聞こえたのだろうか。
リンが隣で小さく囁いた声を、ドルディノの耳は大きく、鮮明に拾った。途端、ドルディノの心臓が大きく跳ね上り、息が詰まった。心臓は早鐘のようになり、口が渇いて、一気に頭に血が上る。体中に熱がこもって、顔が火照った。
体が、熱くて熱くて堪らない。顔からも火が出そうな程、熱い。
―――っ……そんな、つもりはなかった……! ただ……!
「か、風に当たってきますっ!」
言うが早いか、ドルディノはその場から逃げる様に部屋を飛び出したのだった。
「……おい、フェイ。あまりいじめるな」
ドルディノが部屋から逃げる様に出て行ってすぐ、頭はそう呟くように言った。
「いや……だって、お頭も見たでしょう? 彼の表情。あれは……」
「っぼくも失礼しますっ!」
居づらくなったのか、リンが素早く立ち上がって駆け出し、逃げる様に部屋から出て行く。
後ろ手で扉を閉めたリンの耳に、フェイの言葉の続きが聞こえた気がした。
「……愛おしい者を見る目でしたよ」と。
廊下を駆け抜ける足を止めることはせず、一心に甲板を目指した。目的地にすぐに辿り着いたドルディノは、小走りで船尾に向かって走ると、その先にあった太いマストに背を凭れかけさせ、後頭部をコツン、とつける。
そしてそのまま、ずるずると床に滑り落ち、座り込んだ。
晴れ渡っていた青空は翳り、周囲は薄暗い。その中で船についているランプだけが、煌々とオレンジ色の温かい光を放っていた。完全な闇夜になっていないせいか、燦然と輝きを放つ星々は、まだ身を隠している。
船尾の方から他の客人か船員達の声が聞こえ、生き生きとした様子を伝えてくる。しかしそれも、波が砕ける音で掻き消され、ドルディノの耳にはさざ波だけが耳朶を打つようになっていった。
先刻の事を思い出し、心穏やかではいられなくなったからだった。
闇に染まりつつある空を仰ぎながら、あまりの恥ずかしさに両手の平で顔を覆う。
熱くなってしまった体を優しく吹いてくる海風が下げてくれようとするが、それでもまだ足りない。
顔が、凄く熱い。
―――だって……似てたんだ、リアンに……。
言い訳をするように心の中で呟いてから、ドルディノは両手を下して床に平を付いた。その瞳は以前と変わらぬまま、仄暗い空を見つめている。
―――……あの子も、ああいう食べ方してたんだ……一生懸命、水で飲みこんで……。苦労して食べる割には、リアンのお母様の、手作りパンが大好きで…………。
リアン母との三人で送った短くも満たされていた日々が、脳裏に走馬灯のように浮かんでは消えていく。
あの島の人達の幸せを壊したのは、誰だったのだろうか……。
そして、リアンの母親は……。
―――無事、なんだろうか…………。
°*ο。☆°*ο。☆°*ο。☆°*ο。
暗く、光が一切入らない螺旋階段を上がった先に、一枚の扉があった。
その扉の向こうの室内は日が沈んだこともあって仄暗く、明かりと言えば、蝋燭の儚く揺れる灯火だけ。しかし、部屋の暗い雰囲気とは真逆に、内装は豪華絢爛だった。
室内の左隅にある窓辺には純白で、幾重もの可愛らしいレースの天蓋付きベッドがあり、それに置かれてある枕も、まるで花そのもののように美しく丁寧且つ色鮮やかに刺繍糸で描かれていた。
側には、ベッドに腰掛けながら使える距離に一人用の椅子と豪奢なテーブルクロスがかかった小さな机があり、中央には色とりどりの生け花が挿された花瓶が置かれ、室内の右隅には大きなクローゼットがあった。床は一面花柄の刺繍が施された絨毯が敷き詰められ、角には寒い日に暖かく過ごせるよう暖炉が置かれている。
誰が見ても、この室内の主は、大事にされていることが一目で分かる。
しかし、その部屋の主―――……女性が漂わせている雰囲気は、内装と真逆だった。
例え、大事に扱われていても、宝石や豪華なドレスを何着も贈られても。彼女にとって何物にも代えがたいほど大切なものを失ったことに対する絶望を、和らげることは出来なかったのだ。
もう、ここに連れて来られた日から、どれだけ月日が経ったのかそれすらも分からない。
女性に唯一出来ることは、またいつか出会える可能性を信じて、信じて、信じて……信じて、待って、その時の為に少しでも長生きすることだけだ。
ベッドに腰掛けた女性の、純白のネグリジェが衣擦れの音を立て、動く。
女性はほっそりとした指先を窓に当てて、闇に染まった外の世界を、潤んだ青い瞳でじっと見つめる。
どうか、もう一度……あの子に会えますように。
そう、切に願いながら。
扉の隙間から忍び込んでくる僅かな風で蝋燭が揺れる。
その灯火は、本来は銀色の髪を、柔らかな橙色に染めていた。




