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 それから数分も経たずに甲板へ出たドルディノは、船縁へ真っ直ぐに向かうと、船縁に手をかけ体重を預け、茜色に染まり始めている水面を見下ろした。

 澄んだ青空から紅に変わりつつある風景に目を向ける余裕は、まだなかった。背筋に嫌な汗が流れ、額にも小さな玉が浮かんでいた。汗で濡れた体に吹きつける海風はドルディノの体温を少しずつ奪っていく。

 鼻について離れない、あの臭いを消したい。そんな思いから深く息を吸い胸を膨らませ、ゆっくり息を吐く。

 二、三繰り返すと速まっていた心臓の鼓動も新鮮な空気を吸ったからか、少しずつ落ち着きを取り戻していき、同時に体の違和感も消えていった。

 ―――なん、だったんだろう……。

 「大丈夫ですか?」

 眼下に視線を彷徨わせていると至近距離から心配そうな声が聞こえ、はっとして顔を上げると、頬に温かいものが触れた。

 深緑の外套から覗く、ほっそりとした白い手首が灰色の双眸に映り、その少し先に見えるリンの顔を見て状況を理解した途端、ドルディノの頬が火照った。赤味を帯びている様子を見て、頬に触れていた柔らかい指先は額に向かい、自然と顔の距離が近くなる。

 今度は、別の意味で心臓が早鐘のように打ち出した。

 頭から湯気が出そうだ。

 情けない姿を見せてしまった、という気恥ずかしさ、心から心配してくれているその様子に感動し、胸の中に喜びが溢れながらも近すぎる距離に緊張し体が固くなる。

 一気に色々なことが起こり過ぎて今にも倒れてしまいそうで、無意識に船縁を握る手に力が入り込む。

 途端、ミシ、と木製の柵が悲鳴を上げたが、残念ながらドルディノの耳には聞こえなかった。

 リンの起こす行動の一つ一つによって立つ衣擦れの音を、逃すまいとするかのように集中し、拾っていたからだった。

 僅かな動きにさえ目が惹き付けられていた。緊張から湧いてくる唾を、ごくりと飲み下す。

 喉はカラカラだった。

 ぴとり、と、白く柔らかい指先が額に触れる感触と、草花の香りがふんわりとドルディノの鼻孔をくすぐってくる。

 直視できずに、ドルディノは思わず両目を伏せた。

すると、視界を遮断したことによりそればかりに囚われていた意識が散らばり、他の事を感じ取れるようになった。

 真っ先に、リンから漂って来る香りに気が付く。

 先刻嗅いだ臭いとは比べものにならない程、いい香り。薬草の独特な匂いと一緒にふんわりと、何か、いい匂いがするのだ。

 その香りを吸い込んでいると、少しずつ心臓が、心が落ち着きを取り戻していくのを感じる。

 と、思っていると。

 「う~ん……ちょっとおでこ、熱い気が……」

 間近で聞こえたリンの声に、心臓が一気に強く跳ね上った。

 ―――もうダメ……! 全然落ち着かない!!

 「っちょっとごめんなさい! 少し、は……離れて!」

 つい叫ぶように言った後で語尾が強まっていたことに気が付き、慌てて目を開けると、そこにもう腕はなく握りしめた左手を胸元に当てているリンがいた。数センチ手を伸ばせば触れられる位側に居たのに、余裕でもう一人、間に立てそうな程距離が空いてしまっている。

 その現実を直視し、ドルディノの胸がズキン、と痛んだ。

 自分で言ったことなのに。

 二人の間に広がった距離を見ていると自分の胸の中にぽっかり穴が空いたみたいで、急激に寂しくなる。

 「……何なの……」

 小さく呟かれた言葉を耳が拾い、いつの間にか俯きがちになっていた顔をはっと上げた。

 リンは、先刻とは違い背筋を伸ばし真っ直ぐドルディノの方を見ていた。両手は大腿部に下がっており、その手は拳を握っている。身に纏っている雰囲気もピリピリしており、怒っていると一目で分かった。

 隠そうともしていないその怒気を肌で感じたドルディノは、一瞬ですーっと血の気が引いた。

 嫌な汗がじんわりと肌に浮かび始め、頭の中は真っ白で何も考えられなくなったが、一つだけはっきりと感じることがあった。

 このままでは、やばい。

 混乱しながらもどうにかしなければと頭がフル回転し脳裏を駆け巡る。

 が、ドルディノが何かをする前に、リンが先に動いた。

 大きく一歩足を踏み出し、二歩目でドルディノとすれ違う。

 ―――っダメだ!

 その瞬間、三歩目を踏み出していたリンの手首を、ドルディノ手が捕えていた。放すまいと、僅かに力がこもる。

 「っ……何、ですか……? 放して、ください」

 「っ……。ご、ごめんなさい……その、僕…………」

 ―――何て言ったらいい? 仲良くしたいのに近付くとドキドキするって? いやいや、それは何かおかしいでしょう! 本当、どうしたんだろう僕……自分でも、もう分からない……。

 二人の間に沈黙が広がり、言葉を切ったきり口を閉ざしたドルディノを暫く見つめていたリンは、はあ、と溜め息を漏らした。その音に、びくりとするドルディノ。

 数秒経ってから、リンが口を開こうとした、その時。

 ぐっと腕を引っ張られたかと思った次の瞬間には、ドルディノの胸の中に抱き締められていた。

 「っ……!」

 それまでは気にしたことがなかったドルディノの、意外に引き締まって逞しい胸に当てた耳から早鐘のように打っている心臓の音が耳朶を打ち、頬に感じる体温、放すまいとするかのように背中に感じる締め付けに気が付いた途端、リンの顔がカッと熱くなった。


 突如、それは起こった。

 誰かの悲鳴が聞こえると同時に足元がぐらあ、と大きく傾き、宙に投げ出されるような感覚が体を襲った。

 正常なら真っ直ぐ向いている船体が大きな波に攫われ、大きく揺れ動いた影響で甲板が傾き、まるで切り出した斜面のようになったのだ。

 甲板に出ていた客や船員達は蒼い海原に飲みこまれまいと必死に何かにしがみついたり、なす術もなく体中を打ち付けながら甲板を転がり、船縁に引っかかって海へ放り出される寸前で誰かに救われている者もいた。中には誰の救いの手も届かず、海原へ身を投げ出された者も。

 ドルディノは握り締めていた船縁を放すまいと更に力を込め、リンを抱きしめている右手に力を込めると、左右上下に激しく揺れる船体から投げ出されないよう必死に抵抗した。背中から引っ張られるように感じたと思った次には逆方向に船体が傾き、強く握りしめている船縁へ押し付けられ、体が目前の海原へ吸い込まれてしまいそうになる。咄嗟に、右手で抱き締めているリンを抱え込むようにして腰を落とすと床に両膝をつき、なんとか耐え抜く。

 そうやって船体が大波に乗り揺れ始めた時から僅か数秒の後、ようやく波が安定してきたのか、揺れが穏やかになってきたことに気付いた。安堵の溜め息を漏らしたドルディノの、船縁を握りしめていた左手から力が抜ける。それで張りつめていた緊張の糸が切れたように、ドルディノの体からも力が一気に抜け落ちて、体が前屈みになっていった。額が自然に船縁の壁に当たって、コツン、と小さな音を立てる。

 「っ……あ、のっ……!」

 少しくぐもった声が胸元から聞こえ、はっと我に返り、慌てて右手に込めていた力を抜いた。するとリンがドルディノを押しのけるようにして距離を取り、顔を横に逸らす。

 まだ自分の胸にリンの両手が触れていることが気になりつつも、口を開いた。

 「あ、すみません。大丈夫でしたか? ……気分悪くないですか?」

 リンはその言葉に、両手を胸元に引き寄せて小さな声で呟くように答えた。

 「だい……じょうぶ、です……」

 「それならよかった」

 ふんわりと微笑みながらそう言うと、リンの顔がドルディノの方を向いた。とはいえ、何かを言ってくるわけでもなかったが、二人の間に穏やかな空気が流れ始める。

 周囲では船員達が船が壊れていないかどうか調べ始めたのか、あちらこちらから破損の有無を報告するような言葉が飛び交っていたが。

 ドルディノはすっと立ち上がると船縁に背中を凭れかけさせたままのリンに真っ直ぐ手を伸ばし、微笑みかけた。

 リンはその手を取るのを躊躇する様子を見せていたがそれも僅かなことで、ゆっくりとした動作でドルディノの手を取った。力を加減しながらリンを引き上げるようにして立つのを手伝うと、正面から向き合う格好となったが、今度はリンも顔を逸らさなかった。

 端から見れば、見つめ合っている様に見えているに違いない。

 「……何か疲れたし、部屋に戻りましょうか」

 そうドルディノが声を掛け、リンの背中を軽く押し誘導した時、背後から女性の悲鳴と男性の「危ない!」という叫び声が聞こえた。

 「え?」

 何があったのだろうか、と不思議に思いながら今まで背を向けていた、反対側の船縁の方を振り向いた瞬間。

 ドルディノの視界に飛び込んで来たのは、誰かの頭。

 次いで、胸にどん! と強い衝撃が走り。

 気が付けばドルディノの体は船縁を通り越し、蒼く広い海原へと身を躍らせていた。

 ―――ええええええぇぇぇぇ!?

 小さくなっていく船縁からリンが必死に手を伸ばしている姿が目に映り、そんな状況ではないのに喜びを感じた瞬間だった。


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