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突然振り向いたドルディノに驚いたのか、視線が絡んだモーが、目を丸くしている。
「あのっ……、先日……夜、歌…………歌声が、聞こえなかった!?」
その質問に目を瞬かせたモーだったが、夜空を仰いだあと、唸り声を上げた。
「う~ん……ごめん、わっかんないや。もしかしたらその時、おれじゃないやつが番してたかも?」
その言葉に今度はドルディノが目を丸くする。
「えっ、でもさっき……」
「え? あー、と……おれがここに居ることは多いけど、ずっとじゃないんだよね。おれだって寝たいし、ご飯も食べたいし」
「あ、そっか……ごめん」
普通に考えれば、当然の事だった。モーはまだ子供だし、誰でなくとも休みは取らなければ体調を崩してしまう。
それなのに一つの考えに囚われ、頭を掠めもしなかった自分が、恥ずかしかった。
ドルディノが気にしているのが分かったのだろう、モーは明るい表情でポン、と軽く肩を叩いてくると、笑って言った。
「気にすんなよっ!」
陰りが一切ないその笑顔に救われて、ドルディノも微笑み返す。
心の中で気を付けようと思いながら。
「……うん、ありがとう」
翌々日、部屋で休んでいると、ノックと同時に扉が開けられ、フェイが姿を見せた。
「あ、おはようございます」
「おはよ~。お頭が呼んでるよ、甲板においで~」
「あ、はい。すぐ行きます」
扉を閉じて出て行くかと思われたフェイは、顔を覗かせたままじっとしていた。自分を待っていると思ったドルディノは手早く上着を羽織ると足早にフェイの元へ向かう。
ドルディノの準備が整ったことを知るや否やフェイは扉から離れ、薄暗い通路を歩き出す。遅れを取らないよう、足早にドルディノもその後を追った。
甲板に出ると、燦々に降り注ぐ陽光と潮を含んだ海風に迎えられた。短い癖のある髪を風に遊ばれつつ先行くフェイの背中についていくと、背筋を伸ばし凛と立っている船長、そして船員のリン、ボッツが人一人分間を空けて並んでいる姿が目に映る。
待たせてしまったかもしれないと思うと焦りが生まれ、ドルディノは無意識に足を速めた。
先頭を行っていたフェイはボッツの隣に詰めて並び、その様子を無表情でボッツは一瞥する。後ろをついて来ていたドルディノはフェイの隣に僅かな間を空けて並び、それを合図とするかのように、その場にいた船員の視線が船長に注がれた。
「揃ったな」
低く呟かれたその声が、続けて言葉を紡ぐ。
「ドルディノ君。船に居たいということだったな」
「は、はい」
名を呼ばれ、体に緊張が走った。無意識に背筋が伸びる。
「それで少し考えた。君には試験的なものを受けてもらう。もちろん断ることもできる。ただし断るということは船を降りる事だ。どうする?」
ドルディノは、無意識に湧いた唾を飲み下した。
何をさせられるかは全く見当もつかないが、答えは既に決まっている。
「……受けます」
「……そうか。では、昼頃私を含め今ここにいるメンバーで出る。各自旅路に備えて必要なものをまとめておけ。それから何をするかにおいては行きしなに話をする。では解散」
そう言うと同時に背を向け、部屋のある船尾へ颯爽と歩いて行く船長とボッツ。その後に続いて、フェイも後を追うように歩き出した。
あっという間にリンと二人きりになったがどちらも口を開かず、耳に入る音は広大な海原が立てるさざ波のそれだけだ。
気まずい別れ方をしてしまった記憶もまだ新しい。
―――気まずい……。離れるタイミングも逃しちゃって、今更話し掛けもせずに別れるのも変な気がするし……かといって、何を言えば……。
心の中で唸り声を上げていると。
「買い物……してきますけど、一緒に行きますか?」
突然そう言われ、ドルディノは問いかけられていると気がつくのに数秒を要した。はっとして思わずリンの方へ振り向くと、顔を上げ真っ直ぐ自分の方を向いている。
答えが返ってくるのを待っている。
そう感じ、胸が喜びでいっぱいになった。
自ら進んで話し掛けてくれただけではない。外出にも誘ってくれたのだ。
ひたすら遠くに感じていた距離感が一気に縮まった気がして、胸が熱くなる。
出来ることなら叫び声を上げてこの気持ちを大空に伝えたい気分だったが、実際にそれをすると折角近づいた距離がまた開いていきそうなので、止めておく。
その代わり、満面の笑顔で「行きます!」と答えたのだった。
同日。
船長が告げた時刻を守って甲板に集まっていた船員達は、メンバーよりも一足先にやって来て待っていた船長に連れられ、船を降りた。そうして向かった先は、町が運営している船だった。
行き先は、ハジアという町だ。
北西にどっしりと構えているアグレンの半分くらいの大きさで、小さいが緑豊かな大陸といわれている。
船乗り場の側に立っている小太りした中年の男に人数分の金額を支払い、二、三会話をした船長が、自身の船より一回りも二回りも小さいそれに乗りこんでいく。タラップを使い甲板に上がり船尾に向かう船長の後をついていくと、ダグネス船と同様狭く薄暗い廊下が、細長い蝋燭の儚い灯火に照らされていた。
船長は迷う仕草も見せぬまま颯爽と廊下を歩いて行き、皆が無言で後に続くため、ドルディノも口を噤んだままその背中を追った。
途中で曲がることもなく一直線に進んだ先で足を止めた船長があてがわれた部屋の扉を開け、中へ入っていく。ボッツはもちろんフェイも部屋の中へ姿を消し、リンも後に続く。
そして最後に足を踏み入れたドルディノは、扉をしっかり閉めると室内を見渡した。
至って簡素な部屋だ。ダグネス船のようにベッドのようなものは一切なく、部屋の片隅に箱のような物が置かれてあるだけだ。遠目から、何か布のような物が折りたたんで仕舞ってある事が分かり、恐らく床にあの布を敷いて寝るか、体に巻き付けて休むか、好きに使えということだろうと推測する。
今はまだいいが、肌寒い季節に移り変わった時のことを考えると不安になる。
それはそれとして。
―――えーと、どこに座ろう……かな。
一番最初に入った船長は奥の壁に背を預け片膝を立ててくつろいでいた。その傍らで立ったまま壁に背を預けているボッツと、二人から人一人分の距離を空けた手前の床に胡坐をかいているフェイは後ろに回した両手を床に付けて重心を預け、天井を見上げている。リンは二人から少し離れた壁際に両足を立てて座っていた。
その様子を眺めどこに腰を下すか考えていると、それを見かねたのかフェイが声を掛けてきた。
「座らないの~?」
「いえ……」
「リンの側でいいじゃない~? ね、お頭。そっちのほうが色々便利だし~」
「そうだな」
気を遣ってくれたのか、フェイの言葉で場所が決まり肩の荷が下りたような安心感が生まれると同時に、後者の言葉を不思議に思う。
便利とはどういうことだろう。
とりあえずリンが座っている壁際へ向かって足を踏み出すとリンの顔がこちらを向き、心臓が跳ねてざわめきだした。
僅かに緊張しながら人一人分の距離を空け、リンの横に腰をおろし壁に背を預けると、一息つけた心地になり自然に溜め息がこぼれる。
それを聞きつけたリンが疲れたと取ったのか、小さく呟くように言った。
「大丈夫ですか……?」
声を掛けられた瞬間驚きで大きく心臓が跳ねたが、動揺が表に現れないよう努めながらリンの方へ視線を向けると、小さく微笑んで答える。
「はい、大丈夫です。ありがとうございます」
返事を聞いて安心したのか、小さく頷いたリンの視線が自分から外れ、寂しいやらほっとするやら不思議な気分になった所で、船長が口火を切った。
「さて、これからのことを少し説明しておこう。今から向かうのはハジアだ。最近あそこの森に……」
そこで一旦言葉を切った船長は数秒置いた後、声の抑揚を抑え、呟くように言った。
「……化け物がでるらしい」




