51
ドルディノが部屋を去り、僅かな時間室内に静寂が満ちた。しかしヤルが口火を切り、その沈黙も破れる。
「……で、何話してたの?」
その言葉で目線をヤルに向けるが、彼はドルディノが姿を消した扉をじっと見つめていた。そんなヤルを、またリンもじっと見つめながら静かに答える。
「特には……」
「……」
返答に無言を返したヤルは、何かを思案しているような表情で床を見ていたが、視線をリンへ向けると口を開いた。
「友達になって、と言われたんでしょ?」
その言葉に今度はリンが無言になったが、数秒の後、頷く。
「……はい。でも、どうして知ってるんですか?」
「だってさっき、フェイが笑いながら話してたよ。……フェイは、彼を気に入っているみたいだね」
「そうですか」
「興味ないの?」
「何にですか?」
ヤルはリンを見据えながら、真面目な表情で言葉を重ねる。
「……彼に。ドルディノ君、だったっけ」
ヤルの言葉を最後に会話が途切れ、再度室内に静寂が満ちた。リンの口は閉ざされており、そのまま時は過ぎていく。
ヤルは答えは無いものと思い始め、自室へ向かう為に足を一歩踏み出そうとした、その時。
「……分かりません……」
そう呟いた声が聞こえ、ヤルは軽く瞼を閉じ、開けたあと今度こそ足を一歩踏み出して、部屋を後にした。
僕は、走っていた。
自分の背丈まで伸びている草木の中を、がむしゃらに。時折、ずっしりと重く佇んでいる木々達から枯れ落ちた枝を足が踏んで、パキンと乾いた音が響く。自然の刃となっている葉が、身に纏っている服にぱしぱしと当たり、たまに跳ね返ってそれが頬に掠めるが、人の柔らかでない肌の自分には、薄皮一枚も切れやしなかった。なぜそうなのかは分からないが簡単に肌が傷つかない事だけは分かっていたので、意に止めることもなく、日が落ちて闇に染まる寸前の森の中を駆け抜ける。
―――急がなきゃ。見つけなきゃ。真っ暗になる前に、早く。
目を離している隙に居なくなってしまったリアン。
最初は、リアン母も笑って済ませていた。
「また森に遊びに行ったのでしょう。大丈夫、すぐ戻るわ」
と。
しかしそれも、時間が刻一刻と経ってゆき……そのうち戻って来る、から、どこかで倒れてるのかもしれない、と考えが変わる前までだった。
出て行こうとしたリアン母を腕を伸ばして引き留めたあと、自分が家から飛び出したのだ。
早く、早くと思う度に無意識に走る速度が上がっていき、それはもう普通の子供のそれを越えていたが、見ている者は誰も居ない。
そして、そんな自分の変わり様に、自身も気づけないでいた。
闇に閉ざされつつある森の中を駆けずり回って半刻経った頃。
森の中腹にある、小さな泉に辿り着いた。
小さな虫が不思議な音を奏で、涼やかな風が草木を揺らし葉擦れのそれを響かせる。鼻孔をくすぐるのは水の独特な匂いと、木々達の生命力溢れる香り。
そして灰色の双眸に映るのは、もう太陽は完全に隠れ暗闇に支配されるのも時間の問題という状況の中、目前にある泉の縁で倒れている、人間の、子供の姿。
それを見た瞬間叫びそうになったのをぐっと堪え、倒れているその人に掛けよると体を揺さぶった。
声を出せない……いや、出さないように心に決めていた為に言葉で起こせないのは辛かったが、揺さぶっっていると、ゆっくり開いていく瞼から覗く青い瞳を見て、心から安堵の溜め息を漏らした。
「……あれ?……どうしてここに……。……あれ!? どうしてこんなに暗いの!?」
その捜していたリアンの元気な姿を見て、思わず笑みがこぼれる。
無事でよかった。
そう思って。
すくっと立ち上がり、未だ焦った様子できょろきょろと忙しなく周囲に視線を走らせているリアンに向かって、すっと腕を差し伸ばすと、それに気が付いたリアンはきょとんとした様子で瞬きをした後、ふっと微笑んでその手を取り、立ち上がる。
「ありがとう」
リアンの唇がそう動き、その心地よい声色を耳で聴くと何故だか落ち着いた気持ちになる。
そして、リアンと繋いだ手を優しく引っ張りつつも小走りで、家路を急ぐ。
早く帰らないと、リアン母の雷が落ちる。
それを、知っていたから。
そうして予想通り家路についたあと、リアンは暫く叱られていたが泣きそうになり始めたため、リアン母は口を閉じて夕食の準備を始めた。
美味しそうな匂いが家の中にたち込めて、室内も湯気で暖かくなり心も温もりで満たされる。
じんわりと、幸せだなぁ……という想いが胸の中に広がっていく。
やがて、団欒の時がやって来た。
リアン母が声を上げ、リアンと共に席につく。
彼女は体に良い薬草や実を混ぜてパンを焼くのが好きらしく、基本的には毎晩パンを食べる。
自分もパンは好きだ。なぜって、リアンが初めてくれた物だったから。
少しずつ千切っては口に運び、その度に水を口の中へ流し込むリアンを見つめるだけで心は温かくなり、自分と同様、その姿を微笑みながら見守っているリアン母の存在を感じるだけで、僕は―――……。
「……」
夢、だった。
瞼を開けて飛び込んで来たのは茶色い天井。そして、目尻をゆっくり流れていく水が起こす、くすぐったさと冷たさに自分がいつの間にか涙を浮かべていたことに気が付く。
波の影響で船が揺れ、自分自身もまるで波間を漂っているかのような感覚が全身を包み込んでいた。
体を起こすと、ベッドが軋んだ音を立てる。
室内は、暗い。
―――夜、……か。
気の赴くままベッドから足を降ろし立ち上がると、そのまま真っ直ぐ歩いて扉に向かい、部屋から出ると、その影響で僅かな風が生まれ壁にかかった蝋燭の炎が揺れた。
狭く暗い廊下に人型の影が長く伸びている。
―――静かだなぁ……。
甲板の方へ体の向きを変えると、ゆっくり歩き出した。
心なしか、少し肌寒く感じる。
暫く歩いて甲板に出ると、いつものように潮を含んだ風がドルディノの身を包み、髪を弄んでは去っていく。留まることを知らない波は砕け散る音を轟かせ、耳朶を打つ。昼間は何処までも広がっている青空が、今は漆黒のそれに取って代り、星々たちが夜空に散らばって燦々と光り輝いていた。
気持ちのいい夜だと思う。
深く息を吸って胸を膨らませ、ゆっくりそれを吐き出す。
その時。
何かの鳴き声が聞こえた気がして、ドルディノは夜空に視線を走らせた。
目を細め正体を探していると、頭上の方から音量を抑えた少年の声が耳に届く。
「お~い」
普通の人間には聞こえるかどうかギリギリの音量だったが、ドルディノの耳には明確に伝わり、背後を振り返って監視台の方を見た。
「おっ! 気付いた気付いた!」
目が合った途端、嬉しそうな声を僅かに上げた少年モーは、両手を上げてブンブンと勢い良く振っている。その様子を見て微笑んだドルディノは、監視台の方へ近づいて行った。
監視台を支えている太い一本の棒。その側には人が上れそうなロープが張り巡らされており、ドルディノは以前少年がやっていたように両手両足を器用に使って上ると、監視台へ降り立つ。
が、易々と上がって来たドルディノを、目をまるくしてモーは見つめていた。
不思議に思っていると、モーがゆっくり口を開いた。
「ドル……、前に誰かの船に乗ってたことあんの?」
なぜそう訊かれるのか分からなかったが、ドルディノは軽く頭を振る。
「ううん。どうして?」
「いや……そうなんだ、すげぇな……」
言葉の指す意味は分からないが、モーの表情は驚き以外何もなかった。他の人が見れば感心している様にも見えたかもしれない。
悪い風に取られていない事に安心したドルディノは、小さな声で話しかける。
「……ここ、こんなによく見渡せられるんだね。遠くまで良く見える……。一人で、ずっと見てるの?」
ドルディノに話し掛けられ一瞬言葉に詰まった様子のモーだったが、口角を上げてにこやかに答えた。
「うん、そうだぜ。おれ、目がいいんだ。それでお頭から何か見つけたら鐘鳴らすようにって言われてて、よくここに居るんだよね」
「そうなんだ。凄いね」
「へへっ」
そう言って鼻を人差し指で擦るモーは、嬉しそうだった。
皆から頼られることが、自身を必要とされていると感じられて、嬉しいのだろう。
その様子を微笑んで見守っていると、ふとドルディノの脳裏にあることが過る。
それは、先日歌声が聞こえた時の事だ。
あの時、歌に惹かれて甲板へ急ぎ上ったけれどヤル以外には誰も居ない様に思えた。
だが、もし……ずっとその場に、今のようにモーが居たならば。
全て見ていたとすれば。
そんなことが頭に浮かんだ瞬間、緊張と期待で心臓が暴れ出した。同時に生唾が湧いて、喉を鳴らして飲み下す。
訊きたいけど、聞くのが怖い。
そんな想いと心の中で戦っていると……モーがふと口を開いた。
「そういえば、ドルは……この船に乗れそうなの?」
その言葉ではっと我に返ったドルディノは、モーに視線を向ける。
「え?」
「昨日上から見てたんだけど微妙な感じだったから」
「あー……、うん……まだ、分からない……かな……」
「そっかぁ」
そう残念そうな声を上げたモーは、後頭部で両手を組み、夜空を見上げた。
「……なんか、お頭って、船に乗せる人選んでるみたいなんだよねー」
「選ぶ……? それって、何か条件とか……?」
「生まれたトコ、どこかってきかれたでしょ?」
「あ、うん」
「その答え次第……じゃないかなぁって気がする」
モーの言葉から推測するに、自分は帰るところがあるから拒否された、ということなのだろうか。
「……そうなんだね……」
そう、ドルディノは小さく呟いた。
他に返す言葉も見つからない。
二人の間に気まずい沈黙が広がり、ドルディノは歌の事を思い出し、そして訊くか否か迷う。
少し、出鼻を折られた感じだったからだ。
暫く逡巡したあと、折角の機会だからと改めて思い直し、こっそり気合を入れた。そして、視線をモーへ向け、口を開き―――……閉じる。
モーが、ドルディノを見つめていたのだ。
いや、正確には彼ではなく、甲板の方を。
不思議に思って甲板の方を見ると、誰かが船の縁に両腕を掛けさせて、海を眺めている姿が目に映る。
―――あれは……。
「……ヤルにぃ、かな? 眠れないのかなー。時々来るんだよね」
―――そうなんだ……。
そう思った所で、はっと我に返る。
―――訊くなら今かもしれない!
一度はタイミングを逃してしまったが、今なら振ってもおかしくない話題。
先刻よりは若干緊張が失われたが、それでも僅かに心臓が鳴り始める。無意識に拳を握って勇気づけ、意を決すると、モーと向き合った。




