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しーん、と、辺りが一瞬静まり返ったように感じた。
いや、きっとそれは気のせいではなかっただろう。
脳裏が真っ白になって、ドルディノに聞こえる音は、己の心臓が大きく脈打つそれだけだった。喉は渇き、全身から汗が噴き出してしまいそうだ。
今すぐ気絶出来たらどんなにいいか。
なぜ口からやっとでた言葉が『友達になってください』なのか。
もう穴があったら入りたい。
この場から消え去りたい。
そんなことを本気で考えていた時。
「ぶふっ! っ……くっ! ……もうダメっあははははははは!! ははははははははっ!! あっはぁ、もっ、ひーひっひっひっひ、もうっ面白すぎる!!」
聞き覚えのある声が、ドルディノとリンの間に葬式のように重く横たわっていた沈黙を、破った。
爆笑し、未だにそれを響かせ続けている声の主の方へそろりと振り返りながら、内心もう泣いてしまいそうだった。
恥ずかしくて頭から火が出そうだ。
その双眸に映ったのは、茶髪であちこちはねている髪と、こちらに丸めた背中を向けて両肩を大きく上下に震わせながら腹を抱え、留まることを知らない笑い声を上げているフェイだった。
それから一頻り腹を抱えて笑い続けたフェイが、「あっ、もうお腹痛い!」などと独り言ちてからようやくドルディノの方へ体を向け、片手を上げて「やっ、やぁ」と笑い声を必死に抑えながら声を掛けて来た。
腹を抱えているままで。
そんなフェイを若干冷めた目で見てしまったのは、仕方のないことだろう。
あれだけ爆笑されたのだから。
しかしその半面で感謝の念も感じていた。フェイという緩和剤が間に入ったことで、雰囲気が幾分良くなったからだ。
あのまま葬式のような重苦しい雰囲気の中で二人きりというよりは、おそらくマシなはず。
他に掛ける言葉も見つからず、ドルディノは名前を呼んだ。
「フェイさん……」
「あ~……こんなに笑ったの久しぶりだわ~」
そう言いながら軽い足取りで近づいてくると、フェイの腕がドルディノの右肩から左肩へと回され、彼の体重が僅かに移って体が重くなる。
「で、リー坊は彼にどう答えるの~?」
フェイの問う口調はとても軽い。心なしかその瞳も輝いている様に見えた。
この状況を楽しんでいる。
絶対。
―――……こっちは真剣なのになぁ……。
そんなことを考えながらも、リンの答えを待つ自分がいた。
友達になって欲しいと伝えた自分に、どう返してくれるだろうか。
緊張しながら、でも淡い期待も抱いて、まんじりとその返答を待つ。
リンは、フェイから急かされてもただじっと無言を貫いたまま微動だにせず立っていた。
―――何を、考えているんだろう。……迷惑、だったかな……。
色よい返事が聞けそうにないなと思い始め、無意識に顔が俯きがちになる。
隣でしゅんと肩を落としたドルディノを見たフェイは、視線を再度リンへ向けると目で返事を促した。
俯いているドルディノはそれに気が付かず、リンは真正面からフェイの視線を受け止め、それから数秒した後。
「……いいですよ」
「えっ!?」
勢い良く顔を上げると同時に、ドルディノの両肩から重みが消え、代わりに背中に触れる温かい何かを感じた。
それは、フェイの手。
「よかったね~」
単純に微笑んで祝いの声を掛けてくれるフェイに、ドルディノも微笑んで応える。
「はいっ!」
そんなドルディノを見て目を細めたフェイは、優しくドルディノの背中を押した。それによって一歩足を前に出したドルディノだったがきょとんとした目をフェイに向け、彼はふっと笑った。
「……お前達、うるさいぞ」
そこに低音の静かな声が割り込んで来て、はっと視線を正面へ向ける。
すると、そこには先刻まで居なかった頭が、己の部屋の扉を開けて体を半分出し、三人を覗いている姿があった。
瞬間、しまった、と思った。
まだ、船長の部屋からそんなに離れていない場所に居たのだった。それを完全に忘却し、迷惑も考えず自分勝手に振る舞ってしまった。
「あの、うるさくしてすみません……」
そう謝罪の言葉を伝えれば、頭の目線がドルディノの方へ注がれる。
彼は無言で頷き謝罪を受け入れると、ついでフェイに話し掛けた。
「フェイ。もうしばらくこの町に居ることにする。日程は不明だ。そう皆に伝えてくれ」
「了解です」
「では、解散」
その言葉を最後に、頭は再度扉の中へと引っ込んでいき通路から姿を消した。伝言の役目を担ったフェイは、「そんじゃね~」と一言残すと踵を返し、来た道を戻って行く。
去っていくその背中をぼおっと見つめた後、はっとしてそっと振り返った。
そこには、まだリンが立っていた。
忘れかけていた緊張感が全身を駆け抜け、鼓動が速くなる。
―――どうしよう、何を話したらいい? 何か言わないと……。
行ってしまう。
ドルディノの中で焦燥感が膨れ上がるが、改めて何と声を掛ければいいのか分からなくなる。
何かを言いあぐねているような表情で言葉に詰まっているドルディノを黙って見つめていたリンは、僅かに、ふぅ、と息を吐いた。
それはドルディノの耳には大きく聞こえ、ドクン、と大きく心臓が跳ねあがった。ついで連続的に胸を叩き続ける己の鼓動を敏感に感じ取りながら、ぐっと拳を握る。
呆れられた。
そう思って、ドルディノは己の不甲斐なさに泣きたくなり、リンが足音を響かせながら去っていく姿を想像して俯く。
「……それでは……」
リンが発したその言葉に、ドルディノは顔を上げた。
リンが自発的に、言葉を掛けてくれた。
その事実に感動するのも束の間、リンが身を翻し、一歩足を踏み出した。小さくなり始めたその背中に焦り、意を決して制止の声を上げる。
「っ待ってください! もう少し、もう少しだけでいいから……話、を……」
勇気を振り絞って叫んだ言葉は、後者に向けて尻すぼみになり自然と視線も下がっていっていた。
言い終えると同時に耳が拾い始める音は、波間で揺れる船が立てる軋んだそれだけで、去ってゆく靴音は聞こえない。
でも、既に居ないだけかもしれない。
そんな思いから、そろりと目線を動かすと―――……リンがこちらを見ている姿が目に映り、息を吞んだ。
再度二人の間に沈黙が落ちる。
が、僅かな時間を置いた後、それを破ったのは、リンだった。
「……いいですよ。……脇腹の方の傷も診ますので、行きましょう」
「っ! はい!」
了承を得たことが嬉しくて、まるで蕾がぱっと花開くように笑顔になったドルディノは、小走りでリンの元へ駆け寄った。
手の届く距離に来ると足を止め、微笑みながら見下ろしてくるドルディノを、リンは僅かな時間、黙って見上げていた。
が、ドルディノが微笑んだまま首を傾げるのを見ると、さっと体の向きを変える。
「……行きましょう」
再度同じ言葉を掛け促すリンに、ドルディノは笑顔で「はいっ」と答えた。
リンを先頭に、薄暗く狭い通路を歩いて行った先であった部屋は、予想通り、イリヤが看病されていた場所だった。陳列されている棚には様々な薬草や、何かを液体につけてある瓶などが置かれており、それらがこの独特な匂いの発生源になっていることは想像に難くない。
物珍しい為周囲に視線を忙しなく走らせるドルディノとは違い、リンはそれらには目もくれず突き進んでいく。その背中が奥の扉の中へ消えそうになった時、ドルディノも後を追って見覚えがある部屋へ足を一歩踏み出した。
その小さな部屋に入ってまず目についたのは、簡易な白いベッド。自然に、その上で寝ていたイリヤの姿が思い浮かんできて寂しさを覚える。
―――さっきまで、ここに寝てたんだよね……。イリヤ君、まだ海の上かな……? 故郷に、無事に着いたらいいんだけど……。
寂しそうな表情でベッドの前に立ったままそれを見下ろし、イリヤの事に思いを馳せていたドルディノは、そんな己の姿を静かに見つめていたリンに気付かない。
リンが治療薬などを仕舞っている箱を取りに行くために動き出すと、その気配を感じ取ったドルディノが顔を上げ、深緑の外套がひらりと舞いながら動くのを、目線だけで追い掛ける。
そうしてリンが、焦げ茶色の箱を両腕で胸に抱えたまま側に立つと、ドルディノの心がざわめき始めた。
「そのベッドでいいですから、腰かけてもらえますか?」
そう静かに呟かれた言葉に頷いたドルディノは、言われた通りベッドの端に軽く座った。
するとリンが一歩足を踏み出し、側に寄ってきた。
自分より頭一つ分も背の低いリンが深く被っている深緑のフード。それがほんの少し手を伸ばせば触れられる距離で動いているのを静かに見守っていると、心臓がドクンドクンと早鐘のように打ち出した。




