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頭に案内されたのは、とある一室だった。
一見したところ、おそらく彼が使っている部屋なのだろう。
部屋に入って左側の壁には赤や紺の装丁の本等が収まっている木製の本棚が置かれてあり、その隅には小さな四角いテーブル。その上には真っ白な花瓶があり、中には赤色の花が数本程生けてある。その側には同じく小さな椅子が一脚。
彼がその椅子に腰を掛け、本を読むのだろう。
右側の方に目を向ければ、そちらにはもう一枚扉があり、正面には少し大きめの机が置かれていた。そこにはインクや数枚の紙、床には仕損じたものを入れる小さな箱が置かれてある。
部屋に入った頭は、そのまま真っ直ぐ進むと大き目の机に備え付けてある椅子を引っ張り出し、未だ背後に立ったままのドルディノの方へ向けて腰を下した。
椅子に腰かけた頭と、扉の前に立ったままのドルディノの視線が絡み合う。
「さて……、話を聞こうか。君は船に乗りたいと言ったが、何か理由でも?」
「は、はい……」
緊張で湧いた唾を、ゴクリと飲み下したドルディノは、腿につけている手の平をぐっと握りしめ、意を決して口を開いた。
「あの、僕……人を、捜してるんです。その人を、見つけたくて」
「……」
「その人も……以前、奴隷商に捕まったことがあって……その後の行方を、知りたいんです」
「……」
言い終えてほっと一息つくと、少しずつ落ち着きを取り戻してきた。そこでようやく余裕が生まれ、正面で椅子に腰を下している男の険しい表情に気付く。しかし、彼が口を開くことはなく数十秒が過ぎ、なんらかの返答がもらえると思っていたドルディノはとうとうしびれを切らした。
「あ、あの……?」
会話の糸口を作るためおずおずと話し掛けると、更に沈黙が続いたあとで、静かに、けれども重い溜め息が男の口から吐き出された。
重々しい雰囲気を肌で感じ取ったドルディノは、無意識に身構える。
何か、良くないことを言われる。
そう感じたのだ。
「……それだけのために……」
そう呟かれた言葉が耳に入った瞬間、ドルディノは叫んでいた。
「それだけなんかじゃない! あなたには解らないんだ! 目が覚めたら記憶を失っていて自分がどこにいるのかも、誰なのかすら解らない。どこに行けばいいのかも解らない、そんな状態で過ぎる時間が……迎える夜がどれだけ恐ろしくて侘しいものなのか! そんな時に、自分が傷ついても差し伸ばしてくれたあの手が、どれだけ僕を救ってくれたのか! あなたには解らない! あなたにとっては『それだけ』でも僕にとっては違うんだ!」
まくし立てる様に言い切ったドルディノの呼吸は、少し荒くなっていた。
怒りで頭に血が上り、心臓がどくどくと強く飛び跳ねている。肩で息をしていると徐々に落ち着いて来て我に返る。力を入れ過ぎていた拳からそれを抜くと、俯いた。
―――やってしまった。
怒りに駆れて言葉をぶつけてしまい、後悔が押し寄せる。
それでも、本音には変わりはなかった。
当時の自分の気持ちなんて、誰にも解かりはしない。あの、孤独感と恐怖。混乱し、昼夜問わず、泣いた時もあった。
そんな時に、手を伸ばしてくれたあの子の事を『そんなこと』呼ばわりされるのは、許せなかった。
ぎゅ、と瞼を閉じる。
―――もう、ダメだなぁ。
そう思い、決別される心積もりをし始めた時。
「……悪かった」
そう聞こえ、はっと目を見開いた。
顔を上げ視線を向けると、頭はそっと椅子から立ち上がり、ゆっくりとした足取りで近づいてくる。
ぎ、と床の軋む音を響かせ手の届く距離まで来ると、ぴたりと足を止めた。
「少々、言い過ぎたようだ。謝罪する」
重ねて詫びをされ、ドルディノは驚愕すると同時に慌てて口を開いた。
「いえ、いいんです、もう! 頭を下げないでください!」
面を下げているその両肩に触れてもいいものか躊躇しつつ、言葉でそう説得を試みると、数秒した後でゆっくりと頭を上げた彼を見て、ほっと胸を撫で下ろす。
―――はぁー……焦ったぁ。
「……言い過ぎたのは謝罪したが、だからと言って君をここに置くとは言っていない。少し考えさせてくれ」
改めてそう言われ、どきっとする。
「はい……分かりました」
頭の部屋を出ると船体の揺れに体を任せ、ゆっくりとした足取りで薄暗い通路を歩く。そうして数歩足を進めるとピタリと止め、右手側の壁にとん、と背中を預けた。ついで、向きを変えて額を壁に押し当てると、溜め息を漏らす。
―――あ~……もうダメだ……失敗した……。
出来ることなら時を巻き戻して、先刻のことを無かったことにしたい。
そんなことを願うが、それが起こるわけもない。
―――もう、どうして僕……、でも我慢できなかったんだよ……。
頭上の壁に当てている拳を、どん、と軽く叩いた。その拍子に再度、重たい溜め息が漏れる。
どれだけ後悔しても時間は戻らない。
―――あー……これからどうするか、考えなくちゃ……。
気持ちを切り替えるために、大きく息を吸い込んでゆっくりそれを吐く。
吐息と一緒に負の感情を追い出すように。
そうして顔を上げ、背筋を伸ばすと現在自分にあてがわれている部屋へ戻るために、再度体の向きを変えた。
と、正面へ目を向けた時、はっと目を軽く見開いた。
同時に、心臓がどくん、と強く跳ね、早鐘のように打ち出す。
―――リン……さん。
動揺してたからだろうか、気配に気が付かなかった。いつの間にか、数メートル手前にリンが立っていた。
もしかしたら、先刻船長の部屋で叫んだ声も、聞こえてたかもしれない。
そう思うと、バツが悪くなってきて無意識に少し俯きがちになる。しかし、灰色の双眸はしっかりその存在を捉えたままだった。
何か声を掛けられるかな、と淡い期待が心の中に育っていくと同時に、どう答えようか、何を話そうかと頭の中で考えが駆け巡る。
そうしているうちに立ち止まっていたリンが、一歩足を踏み出した。
緊張に身を固くしながら固唾を吞んで見守り、リンが至近距離に来たのを見つめ―――……スッと真横を通り過ぎるのを、目の端で捉える。
―――っ……。
胸が、苦しかった。
もっと、話したい。距離を近づけたい。
仲良くなりたい。
そんな気持ちが、膨れ上がる。
「あのっ!!」
はっと我に返った時は、口が勝手に滑ってリンを呼び止めていた。その現実に驚愕し焦りが生まれ、己の浅はかな行動を悔いる。
会話の糸口さえ見つからないのに呼び止めた自分を殴りたかった。
しかしそんなことは言っていられない。もう話し掛けてしまったのだ。なんとかして切り抜けねばならない。
内心あわてふためきながらも態度には出さず、ゆっくり背後を振り向く。すると肩越しに、リンがこちらを向いて立っている姿が目に映り、心臓が早鐘のように打ち始め、大きく胸の中で跳ねまわる。
心臓が、胸を破って飛び出てしまうのではないかと不安に思う程。
ドックン、ドックンと打つ音が、リンに聞こえていませんように。そう切に願った。
緊張しすぎて手の平に汗がじんわりと浮かび、背筋を滴が走る。
湧いた生唾をゴクリと飲み下しながら体の向きをゆっくりとした動作で変え、リンと正面から向き合った。
―――何か、何か話さないと! 何かっ……!!
今までにない程頭をフル回転させ話題を探すが、何も出てこない。
頭の中は真っ白で、それがドルディノを余計に混乱させていく。
もう、手が震えそうだ。
呼び止めた挙句何も言わないドルディノを静かに見つめていたリンだったが、しびれを切らしたのか踵を返し、背中を向け、再度歩き始める。
―――っ!
少しずつ開いていく距離。
何か話しかけないと、という思いだけがドルディノの中を占め、そして。
ついには、弾け飛んだ。
「っ僕と友達になってくださいっ!!」




