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イリヤと別れたあと数分かけて心を落ち着かせたドルディノは、ゆっくりとした足取りで船へ向かっていた。
涙が流れたあとの肌が、向かい風を受けて少し冷たい。その個所を手の甲で拭い、水気を取る。
―――無事に、帰ってね……イリヤ君。
歩きながら青が広がる天を仰ぎ、少年へ想いが届くように心の中で静かに祈りを捧げた。そうして前を向き直し暫く歩くと、先刻まで居た船……ダグネスの姿が灰色の双眸に飛び込んで来た。
天に向かって伸びる太いマストに先日は巻かれてあった白い帆が、風に大きく靡いてバサバサと音を立てている。
もう出立準備がされているのだろうか。
それを見て、ドルディノの心にも焦りが生まれる。
もう、時間がない。船が、出てしまう。
慌ててドルディノは歩を速めた。小走りで真っ直ぐ船を目指す。
先刻と同様、港と船を繋げているタラップを踏んで甲板に降り立つと、変わらずフェイを筆頭に同じメンバーが並んで立っている姿が目に映り、肩の力を抜いた。出るまでには間に合った、と安堵の溜め息が漏れる。
ドルディノが戻って来たことに気が付いているとは思うのだが、船員達の視線は船首へ向いていた。それを追ってドルディノの目線も舳先へ向かう。
そうして目に映ったのは鍛えている逞しい背中と、首の後ろで一括りにされた菫色の髪が、風に弄ばれている男性の後姿。
―――あの人は……。
確か、この船の船長だ。
頭、と呼ばれている。
その逞しい背中を見ながらふと、そういえばまだ名前を知らないな、と思った。
一歩足を踏み出して床を踏みしめると、ギッと軋む音が立った。それを何度か繰り返して背中を向けている彼の側まで歩いていく。
手の届く距離まで縮まった時、男が突然振り向き、咄嗟にドルディノは足を止めた。
灰色の双眸と、男の茶色がかってくすんだ朱色のそれとがぶつかり合う。
「―――何だ?」
男の、静かな声が耳に入る。
―――お頭さんが居るうちに……伝えたほうがいいよね。タイミング的には、今のほうが……。
素早く背後を振り返り、船員達に混ざっているフェイに視線を向ける。彼もドルディノをずっと見ていたのかすぐに目が合うが、にこにこしたままで口は閉ざしたままだった。
一切口を出す気がないと分かり、再度正面へ視線を戻すと、無言のままドルディノを見つめ返答を待っている頭に応えるため、口を開いた。
「あの……僕も、ここに置いてください! お願いします!」
そして、頭を下げた。
どんな返事が返ってくるか、追い出されるかとそればかりが頭に浮かび、心臓が早鐘を打っていた。静かに頭を垂れ答えを待っている間の沈黙が、とても重く長く感じる。
そうしてその重い空気が数十秒まで達したとき、ああ、もう受け入れてもらえないかなと思い始め。
しかし次の瞬間、彼が発した声が大きく耳朶を打った。
「……頭を上げろ」
それは答えではなかったがその声色にどことなく凄みを感じたドルディノは、口元を引き結んで素早く姿勢を正し、真っ直ぐ彼の顔を見る。
頭の、錆色の双眸と視線がぶつかり合う。
数秒して。頭は目を細くし、何かを探るような視線をドルディノに向けた。
「……出身は?」
そう静かに問われ、ドルディノは目を軽く見開く。
まさか、質問が返ってくるとは思わなかったのだ。どういう意図で訊いているのかは解らないが、変わらず胡乱な目つきで見据えてくる頭にこれ以上怪しまれまいと、答えを返すべく口を開く。
「……アグレン、です」
その言葉を聞き、頭は僅かに目を見開いた。
その反応に、今度はドルディノが驚く。
―――な、なんか、変なこと言ったかな?
アグレンは、蒼く広い海原を北西に渡った先にある王国だ。険しい山々が屹立しており、それが堅牢で他国が手を出しにくい状態を維持している。
そして、これは国家機密だが、アグレン出身の者は皆竜族。
能力は、力・明晰・火・風・水・土のどれかを授かり、その差はピンからキリまであるが何の力を保持しているかで髪の色や瞳、あるいは性格といったものに表れる。同時に彼らは、普通の人では感じ取れない『気』を感じ取り合うことが出来るため、それによって互いが竜か否かを判断しているのだ。
力に秀でている者は、大抵体を鋼の如く鍛え、武術を学び、自国を守る防衛隊に志願する。そういう者達が国を守っているため尚更他国からの侵害が及ぶことは殆どなく、彼らの正体を知らぬまま人間達は戦に負け、撤退していくのだった。
『竜』というものが存在しているということは、誰でも知っている。歴史書や口頭などにより、一般知識として伝わっていくからだ。だが、それを実際目の前にして見たところで、すぐに『竜』と判断できる者は殆どいないだろう。それ程、竜族が人の姿で人間のように目の前で生活していても本来の姿で人間の前に現れることは稀なのだ。
堅牢な山々と武術に秀でた防衛隊が立ちはだかり、攻め落とすことは至難の業。
こうしてアグレンは何百年も、独立国家として世界に名を轟かせ、一目置かれる存在となっていったのだった。
「なるほど~」
正面の頭が無表情に戻ると同時に、数メートル離れた後方に居るフェイが感嘆の声を上げた。それが耳に入り振り返ると、口角を上げて目を細め、にまにましている彼と視線が合う。
フェイはドルディノと目が合うと何度か一人で頷いている。
―――え、な、何……?
アグレンの者は理解しにくいだろうが、彼らの持っている力は人間にとって恐ろしくもあり、そして喉から手が出るほど欲しいものでもある。
そんな出身の者が、目の前に立っている。
フェイの中でドルディノに対してあった好奇心がむくむくと膨れ上がっていく。
思わず、フェイの足は前に出ていた。
隠し切れない好奇心を、満たすために。
ドルディノの真横で足を止めたフェイは、ニコニコと微笑んでいた。しかし、その目つきは珍獣を見るときのそれだ。
「ねぇ、本当にアグレン出身なんだよね?」
そう問うフェイの口調からはいつもの間延びしたそれとは違い、はっきりとした力強さを感じた。思わずドルディノも肩に力が入ってしまう。
何故か、アグレンという言葉を出しただけで周囲の者達を取り巻く雰囲気が、ガラリと変わってしまった。
―――どうして急に……。
自分に対してあった皆の視線が、変わったのか。
無意識にドルディノは奥に並んでいるリンを見た。しかしリンの双眸はあらぬ方向を向いていた。その視線を追った先には燦々と降り注ぐ陽光で水面が宝石の様にキラキラと輝く、どこまでも続く蒼い海原がある。
リンの意識は自分に向いてないと知り、ほっとする反面がっかりしてしまい、またそれが自身の心の中を更に乱す。
何故、こんなにもやもやするのだろう。
―――どうして……。
「おーいドルディノくーん?」
間近に聞こえたその声ではっと我に返り、いつの間にか俯いていた顔を上げれば、目と鼻の先にフェイのすっと通った鼻筋が見えた。同時に、芽を出したばかりの若葉のように色鮮やかな瞳に出会い、その瞬間、吸い込まれるように見入る。
その間の僅かな無言を、質問に答える気はない、と判断したのか。
身を乗り出していたフェイは姿勢を正し、後頭部に両腕を回して指を絡ませると、僅かに溜め息をついた。
「……まあ、いいけどね~」
そう告げられた言葉が突き放されたように感じ、慌てる。
無視するつもりなんて更々なかったのだ。
「あ、あの僕っ……」
なんと言って誤解を解こうかと急いて口を開いたものの、喉につかえ上手い言葉が引き出せず、それがますます焦りを生む。
そんな悪循環に片足を踏み入れていた時、背後から低く落ち着いた声が聞こえた。
「フェイ」
その声色は、ただ名前を呼んだだけで他意はないように聞こえた。
しかし何故か呼ばれた当人はその直後相好を崩し、突然ふっと笑う。
その表情は、いつもと変わらないそれだった。
彼が笑ったことでなんとなく感じていた焦りや緊張が解け、無意識に両肩に入っていた力が抜けてがくんと下がる。ついで、強張っていたドルディノの表情も緩んだ。
「ふはっ……君は純粋だね~。からかうと面白い」
「えっ!?」
ほっと胸を撫で下ろしかけたドルディノだったが、フェイのその言葉に軽く目を見開いた。
―――あ、遊ばれてたの!?
「ちょっと酷いですよフェイさん!」
「ふははっ」
くすくす笑い出したフェイを前にして今度は違う意味で慌てだすドルディノだったが、それも僅か数秒の事だった。
「だめだ」
背後から、静かにけれどもはっきりとした声色で拒絶の言葉が聞こえた瞬間、なんの答えか分からず混乱したが、ついで先刻船に乗せてくれと頼んだ事に対しての返事だと理解した途端、頭が真っ白になる。
慌てて口を開こうとするがそれよりも早く、フェイが応酬した。
「え、何でですか頭」
先刻まで黙っていたフェイが自分の援護をしてくれたことに驚き、言葉が出なくなってついフェイを見つめる。が数秒で我に返ると素早く振り返り、船長と視線を合わせた。
今はフェイを気にしている場合ではなかった。自分が船に残れるか否かが、かかっているのだ。
「なぜお前が答える、フェイ」
「アグレンですよ、あの」
質問に質問で返された頭だったが、機嫌を損ねたりすることもなく淡々と答える。
「だから何だ。……分かっているだろう?」
「そりゃまあ、ええ、分かっていますが。この坊やは結構いけますよ」
自分には訳が分からない話で己に関することが勝手に進んでいき、待ったを掛けたくなるが、そうすることでフェイという貴重な援護を失う可能性を考えると、つい躊躇してしまう。
口を出すことがいいのか悪いのか。それらを見極めるため、ドルディノはしばし見守ろうと思った、その矢先。
「それはお前しか知らないだろう。私は見ていない」
「それはそうですが……」
若干押され気味になっている。
そう言って口を噤んだフェイの眉根には、皴が寄っていた。
ドルディノの心の中に数秒前まではなかった焦りが生まれる。口を出すか否か躊躇する気持ちと、何かを言わなければ、という使命感のようなものに駆られ言葉を探すが、それを口にする前にフェイが明るい声を出した。
「だったら試してみればいいんじゃないですかね」
名案だ、と言いたげなフェイの笑顔が輝いて見えた。
だが、それは船長には通じなかったらしい。彼は、今度こそ眉根に皴を寄せフェイを見ている。
口元を引き結んだ頭は眉間の皴をそのままに、視線だけをドルディノへ移した。目が合った瞬間、ドルディノは一度拒絶されたこともあり、緊張で湧いた唾をゴクリ、と飲み下した。
心臓が忙しなく跳ね、胸を叩いてくる。ぐっと手を握りしめ、彼の口からどんな言葉が飛び出てくるのか
と、最後の時をまんじりと待った。
短くも長い十数秒経った後、頭は、重たい口を開いた。
「……ついて来なさい」
「は、はいっ」
颯爽と通り過ぎ脇見もせずに真っ直ぐ歩いて行くその背中を見て、慌てて後を追い出したドルディノの背中を、フェイが離れる寸前、トン、と押した。
それに気が付いて足は動かしながらも背後を振り返ると、フェイが微笑みながら左手をひらひらさせている姿が灰色の双眸に映り、ドルディノは嬉しくなって微笑み返し、軽く頷いて見せる。
そして、遅れを取らないよう再度正面に向き直すと、先行く逞しい背中を追い掛けるのだった。
°*ο。☆°*ο。☆°*ο。☆°*ο。
―――最近、特に物騒な世の中になってきやがった。
そう考えながら、彼は毎日通る広く長い廊下を歩いていた。
向かっている先は、昔ながらの友人であり、まるで兄弟のように育った心許せる幼馴染が籠っている部屋だった。
とはいっても、幼馴染も籠りたくてそうしているのではない。
今頃どこをほっつき歩いているのか分からない、部屋の主が本来閲覧するべき紙の束を一文一句逃さず読み捌き、すぐに対処できる案件とそうでないものとを仕分けている最中だ。
けれど、彼もそればかりをしているわけではない。
どこを放浪しているか分からない主が戻って来た時の為、幼馴染は誠心誠意尽くしているのだ。
主が戻って来た際はおそらく、当分部屋から一歩も出られないだろう。
自分は、幼馴染の指導の下、主が机にしがみつくようにして出奔したあとの穴埋めをしている間、温かい目でもって見守ってやろうと思っている。
男は、目的の部屋に辿り着くと手を伸ばし、扉を開け放った。
その途端正面の窓辺から差し込んでいる光が目を刺して眩しく、思わず目を眇めたが、視線を逸らして幼馴染の姿を捜した。
彼は、すぐに見つかった。
この部屋の主がいつも腰を下している椅子とは別の、真横に置かれてあるそれに座っていたからだ。
そこは、幼馴染の定位置。
「何か用ですか? マルクス」
黄金色に輝いている腰まで届く長い髪が、前のめりになった瞬間肩から頬へさらりと垂れ、それを鬱陶しそうに左手ではねのけると同時に顔を上げた、幼馴染の深緑の双眸とマルクスの漆黒のそれとが合った。
ついで、ガタン、と音が立つと同時に幼馴染の彼、シードは立ち上がると、机の前に回ってマルクスへ近寄っていく。
その距離が手の届く所まで縮んだ時シードの歩みが止まり、もともと皴が寄っていた眉根に更に深いそれが刻まれる。
深緑の視線の先には、新たなストレスの元を運んで来たマルクスの指先―――……もとい、彼が手に持っている一枚の紙へと、注がれていた。
そのしかめっ面を間近で見たマルクスは悩ましげな表情を作ると、ゆっくり口を開いた。
「お前……禿げるぞ?」
「うっさいわー!!」
ゴン! と室内に何かを殴ったような音が響き渡る。同時に、誰かの呻き声。
シードは、大抵周囲から冷静沈着、と言われるのだが、マルクスの前ではそれも形無しだった。
腰を軽く折り、殴った手に宿った痛みを緩和させようと無意識にぶんぶん手を振るシードを目の前に、頭を殴られた筈のマルクスは何事もなかったように背筋を伸ばして立ったまま、微動だにしない。
「くっ……お前の頭は鋼鉄か!!」
僅かに肩を震わせているシードが上げたその声に、マルクスは「あー」と呟いた。
「すまんすまん。ははっ」
うすっぺらい紙のように軽いノリで謝罪され、シードは痛めていない左手をぐっと力強く握りしめる。
殴りたい。
いますぐこいつを殴りたい。
そう思いながらも、理性で耐える。
何故なら、殴ると己の左手が痛むだけなのだ。
握った拳を震わせていると、ぺら、と音がして視線だけを動かす。すると、頭上に紙が差し出されていた。
佇まいを直し背筋を伸ばすと、マルクスに差し出されている一枚の紙を受け取り、視線を落とす。そこに綴られている流麗な文字を追って、シードの深緑の瞳が左右、上下に走っていく。
それは、報告書だった。
文字を追い掛けていたシードのエメラルドの瞳が動きを止め顔を上げると同時に、聞いているこっちが重く感じる程の深い溜め息が口から大きく漏れ出した。
「……詳しく、話を聞きましょう。消えた子竜の親は何処にいますか?」
「応接間だ」
マルクスの答えを聞くや否や、シードは颯爽と歩き出す。その背中を追ってマルクスも室内から廊下へ出ると扉を閉め、来た道を戻り始めた。
先頭を行くシードの、腰のあたりで纏められている黄金色に輝く髪が、歩く度にゆらゆらと揺れて艶やかに光る様を見ながら、マルクスはふと思ったことを口にした。
「……やー、数年前のことを思い出すねー」
それは言わずもがな、現在進行形でこの城から姿を消している王子、ドルディノの事だった。
ただし、その数年前と違って今回は自分の意志で出奔したのだが。
カツン、カツンと廊下に二人分の靴音だけが響き渡る。
マルクスの発言に応えることもなく歩き続けるシードの後を追って数分後。
応接間へ続く扉が二人の双眸に映り始めた時、シードがぼそりと呟いた声がマルクスの耳まで届いた。
「……まったくあの王子は一体どこで何やっているのだか……」




