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それは、確認だった。
騒ぎがこれ以上広がらないようにここまで逃げて来たのだ。それなのに、すぐに見つかってしまい咄嗟に言葉が出ず、何と答えればいいか逡巡する。
その間が無言となり、二人の間に重く横たわった。
そうなると今更口を開くのも気まずく感じてしまい、ドルディノは動かないようにナイフを固定しているように見せかけて実は傷口を隠している左手に、ぐっと力を込める。
―――どう、しよう……。
永遠にも思えるほどの重い沈黙。
それを先に破ったのは、侵入者だった。
「悪いようにはしません。ただ、……ぼくは薬剤師兼医者の真似事をしているので。その傷が……少し、気になりまして。早く治療しないと……お体に、障りますよ」
落ちついた声色で静かに、囁くように言われた言葉が狭い路地の中にそっと響いた。
そう言葉を掛けて以来、身動きもせずに佇んでいる侵入者を、ドルディノは静かに見つめる。そうしていると、何故かこの人は……大丈夫だと、思えてきた。
「……どこで……」
治療をするのか、と続けようとした。
だが、全て言わずともその先を察したように、侵入者はゆっくりとした足取りで歩き出し、ドルディノとの距離を縮めてくる。
少しずつ距離を縮めてくる侵入者を、ドルディノは落ちついた気持ちで眺めていた。
「……こちらから行きましょうか。入り口が近いですし」
ドルディノとすれ違いざまにそう静かに呟いた侵入者は、足を止めることなく暗がりの路地の中を、真っ直ぐ歩いて行く。その背中をほんの少し見つめた後、改めて脇腹に刺さっているナイフが動いて肉を抉らないように、手で握ってナイフの角度を固定させると、後を追う為に歩き出した。
暗がりの狭い路地を後にしたあと、燦々と降り注ぐ陽光で露わになった侵入者の後姿を見つめながらついて行っていた。
濃い緑の、フード付きの外套を身に纏っている為、体のラインも覆われた布地で隠れあやふやになっていて、見た目で性別は判断できないし、見る人が違えば不審者にも間違えられそうな格好だ。
歩く度に風で膨らんだ外套がバサッと重たそうな音を立てて波打つように宙を踊る。
それを見ながら歩きつつも、脳裏では別の事を考えていた。
―――あの、男の人……どうなったのかな。
脇腹を刺してきた男。
これでもかという程眉根に皴を寄せ、血走った眼で睨み付けていた。憎々しげに歪んでいた口元が、脳裏に焼き付いている。
あの男が襲ってきたのはこれで二度目。
一度目はフェイも一緒に居た時。二度目は、彼は居なかった。
なのに襲ってきたということは。
―――狙いは、僕だった……? でも、どうして……。
順を追って、思い出してみる。
あの男と会ったのは、屋敷の中。フェイがわざわざ連れて来てくれたのだ。
―――そう、それから少し話をしてたら……そうだ、なんか急に形相が変わって……。
殺意を感じた。
フェイが男を羽交い絞めにしていなければ、飛びかかって来ていただろう。
―――そうだ、あの男……途中からまるで僕を目の仇のように……。けど、どうして? あんなに恨まれる覚えは……ない。
「何かしたっけ、僕……」
無意識にぽそりと呟いた。
男が自分を狙ってくる理由を脳裏で探していると、トン、と何かにぶつかってハッと我に返る。
目の前に、自分を見ている侵入者の姿があった。
「あっ、すみませんっ……怪我しませんでした?」
慌てて視線を体中に走らせ、怪我していないかを目で探る。
見える範囲では特に変化が見られず、ドルディノの視線は改めてフードを深くかぶっている侵入者の顔へ向けた。
瞳は見えず表情も窺い知れない。しかし、柔らかそうな白い頬、小さい鼻先と口元が陽光に照らされはっきりと目に映りこんできた。
瞬間。
なぜか心臓が、ドクン、と強く飛び跳ねた。
ドクンッドクンッと早鐘のように強く打つ鼓動がこれでもかというほど大きく、自身の中に響いた。それがまた、目前に立っている侵入者に聞こえてしまうのではと、緊張する。
無意識にゴクリと唾を飲み下したドルディノは、手の平をぐっと握りしめると、口を開いた。
「あ……、あの……」
「……大丈夫ですか?」
そっと囁かれるように掛けられた言葉が耳に心地よく響き、ゆっくりとドルディノの中へ染み込んでいった。同時に、何故か先刻まで感じていた妙な緊張感が、少しずつ薄れていっていく。
早鐘のように打っていた鼓動は徐々に落ち着きを取り戻し、数秒後にはいつもの正常な状態となり一定のリズムを刻み始める。
二人の間には、手をほんの少し伸ばせば触れられるほどの、僅かな距離しか空いていない。
目と鼻の先からじっと見つめられていることには、変わりないのに。
どうしてだろうか。
こんなに、心が落ち着くのは。
―――なんでだろう……なんか、安心する……。
答えが返ってこない事に待ちくたびれたのかあるいは気を悪くしたのか。
侵入者はくるりと身を翻しドルディノに背中を向けると、無言で再度歩き始めた。
「あ……」
答えそびれてしまい、不本意ながら無視した形となったことに慌てたドルディノは、ゆっくりとした足取りだが一切振り返ることなく進んでいく背中に不安を覚え、僅かに速度を上げて、その後を追ったのだった。
案内されたのは、町から数メートル離れた所にある崖だった。そこからは、町の入り口や港に並んでいる船、そして青い海を一望できるようになっていた。
潮をたっぷり含んだ湿気のある風が、吹いてくる風に乗って身を包み込んでゆき、崖下からは波が飛沫を上げながら岩にぶつかっている音が響いており、それが大きく耳の中で木霊する。
左脇腹の刺し傷はずきずきと痛みを訴えてくるが、吹いてくる風は心地よい。自然に瞼を伏せて、風に身を任せていると、背後から静かな声がした。
「こちらへ来てください」
促されるままに側へ寄ったものの、どう座るべきか逡巡し棒立ちになる。
「……そのままでもいいですよ」
そう言うと外套の中に手を入れ、外に出したとき、何もなかった手の平には拳が三つ入りそうな大きさの、茶色い小袋が握られていた。瞬時に草のような独特な匂いが漂い始め、すん、と軽く息を吸い込み、香りを嗅ぐと苦そうなそれが鼻にツンときた。
ドルディノの視線が注がれる中、袋を縛っていた紐が解かれ、布地がずり落ちる。すると、小さなガラス瓶が数本と丸く平べったいケースが一つに、巻かれてある包帯と木製の匙が見えた。目を凝らすと、濃い緑の葉っぱと、乾燥させたのかしわしわの潰れたような茶色い実も入っていることに気付く。
―――へ……え、色々あるんだなぁ……。
ドルディノが見守っている中、厚い布のようなものを取り出すとそれに巻きつけている細い紐を解いた。その中にはまた、数センチ四方に切られた布のようなものがあった。
次に小さな瓶を取り出して蓋を開けそれを自分の指先に垂らして中身がこぼれないように大腿部に寝かすと、数センチ四方の布を摘まんでドルディノの脇腹へ近づけてくる。そしてナイフが刺さっている脇腹を数秒見つめると、そっと囁くように言った。
「抜きますね。少し痛むと思います」
「あ、はっ……!」
はい、と続けようとしたドルディノだったが急に鋭い痛みが走って息を吞んだ。
「裾、捲ってください」
言われて上半身の裾を治療に邪魔にならない程度の高さまで捲ると、四方に切られた布が斜めに走った傷口の下に当てられ、先程寝かした小瓶の中身を傷口へ垂らされる。瞬間、傷口に染みて、痛みが走った。
「っ……」
傷口がじんわりと熱を持ち、ずきずきと疼く。
痛みに耐えていると、熱を持った傷口に冷たいものが触れ、続いて肌を滑る感触があった。何をしているのかと思い視線を落とすと、最初小瓶の中身を垂らした指先に緑色の何かが付着しており、更にそれを傷口に塗っていたと分かり、安心する。
治療が済む間、手持無沙汰で他にすることもなかったため、なんとなく、無駄がなくテキパキと動いていく手先を眺めていた。
傷口に薬を塗った指先が、今度は袋の中に入っていた濃い緑の葉を一枚取り出してそれに小瓶の中身を垂らしてから、濡らした面を傷口の上に貼ったあとに、その上から包帯を腰に巻きつけていく。それが終わると肌に触れていた指先が離れ、緑色で汚れている指は新しい布で拭われて綺麗になっていき、使われた小瓶などの道具がカチャカチャ音を立てながら、仕舞われていった。
「もう、下していいですよ」
ぼおっと見ている所に突然声を掛けられて、はっと我に返ったドルディノは、慌てて捲っていた裾を離し服の皴を伸ばす。
少し、気恥ずかしい。
「ありがとうございます……」
「いいえ」
少し俯いていると、衣擦れの音が聞こえ人が動く気配がした。思わず視線を向けると、侵入者は道具を片づけ終わって立ち上がったところだった。
視線を感じたのかドルディノを一瞥するが、何も言うことはせず、踵を返して歩き出す。
―――あっ……。
何故か離れていくその小さい背中を見た瞬間、もう少し一緒に居たい、と心から思った。
気がついたら、叫んでいた。
「ちょっと待ってっ……!」
そんな自分に驚いて、咄嗟に口を噤む。
去ろうとしていた侵入者も足を止めて振り返り、ドルディノを見ていた。
衝動的に声を掛けたものの、何を言えばいいか分からず言葉に詰まってしまい、気まずい沈黙がその場を支配した。
風が吹き抜け木々や草花が立てる葉擦れの音や波が岩に当たって砕けるそれが、普段よりも大きく聞こえる。
「……用がなければ、これで失礼します」
静かに、けれども強い意志を含んだ声音がドルディノの耳に届いた。
「あ……」
小さな呟きがドルディノの口から漏れたが、聞こえているのか聞こえなかったのか、二度振り返ることも足を止めることもなく、今度こそ侵入者はその場を後にした。
その背中が消えるまで見つめ続けたドルディノは、手当てをしてもらった脇腹に視線を落とし、そっと手を添えた。
傷の手当てをしてくれたその優しさが、嬉しかった。
じんわりと、心が温かくなって自然に笑みが浮かぶ。
服の上から傷口付近を撫でていると、ふと男の事を思い出し、肌の上を滑っていた指先がピタリと止まる。
ナイフで刺してきた男の事を思い出したのだ。
―――しまった。あの人のこと忘れてた……。どうなったかな……確かめに行かないと。
ドルディノは、傷が痛まないように意識しながら歩き出し、僅かに速度を上げて来た道を戻って行くのだった。
先刻、刺された道の近くまで戻って来たドルディノは、安堵の溜め息を漏らした。
その灰色の双眸には、特に異常と言えるほどのことは映っていなかったからだった。
自身の店の前に立ち、客の興味を引こうと声を張り上げている主人達、並んでいる商品や美味しそうな匂いに誘われそれを吟味している客と、足を止めることなく素通りしていく者達、端の方に数人が集まって笑い声を上げたり真剣な顔をして話をしている様子もちらほらと見受けられる。
しかし、それだけだった。
襲われた際のような野次が飛び交うこともなく、平和そのものといった雰囲気である。
―――よかった……。あの男は居ない。でも……どうなったんだろう?
きょろきょろと周囲を見渡してみるが、行き交う人々の中にも男の姿は見当たらない。
どこかへ連れていかれたのだろうか?
―――とりあえず、誰かに訊いてみようか……。
そう思い再度周囲へ視線を走らせ、自身の問いに答えてくれそうな者を捜していると、「おーい!」という声が耳に届いた。
どこかで聞いた覚えのある声だった。
声の主を捜す為見渡していると、
「おい! あんた!」
背後からそう聞こえてくると同時に肩をポン、と叩かれ、振り返るとそこには見覚えのある顔があった。
―――誰だったっけ……。
男の顔を見ながら逡巡していると、ふと男の腰から膝下まで垂れている真っ赤な布地に目が行き、閃く。
「パルカ屋のおじさん!?」
「お、おう! よく分かったな坊主……って、まぁさっき会ったばかりだもんな……いや、そんなことはどうでもいいんだよ! あんたさっき男に刺されてなかったか!?」
その言葉を耳にした途端、ドルディノの心臓は勢いよく跳ね上り、血の気が引いた。変な汗が額に浮かぶ。
心臓が、飛び出てしまいそうだった。
僅かに手の平に浮かんだ汗を指で擦りながら拳を作り、唾を飲み込む。
素早く周囲に視線を走らせると、間近に立っている数人が、顔に好奇心を浮かべてこちらの様子を窺っているのが見えた。
こそこそと耳打ちをしながらも、視線を外さず真っ直ぐ見つめてきている。
昼の市の真っ只中で賑わっている為、パルカ屋の主人の声はうまく掻き消され、遠くまでは届かなかったのだろう。
それだけが唯一の救いだった。
―――落ち着け……。
そう何度も心の中で呟き、自身に言い聞かせながらも笑顔を作る。
ほんの数秒男を見つめてから、そっと耳元に口を寄せた。それに気が付いた店の主人も、少しずつ体を近づけてくる。
「……刺されはしましたけど、ほんの掠り傷だったし、消毒もしたのでもう大丈夫です。それより、皆さんの視線が痛いので……」
そう耳打ちすると、男は体を離したあと頭をガリガリ掻きながら、慌てて言った。
「おお、すまんすまん。深く刺さったように見えたものでな。まあしっかり歩いているように見えるし、大丈夫なんだろう。大声出してすまんかったな」
「いいえ」
そう答えて少し微笑む。と、センザの事を思い出し、続けて言った。
「そういえば、ナイフを向けて来た男なんですが……彼、どうなったかご存知ですか?」
「ああ……あの男なぁ。町の数人が縄で縛ってから屋敷の方へ連れていってたぞ。屋敷の方で一旦身を預けられてから、王都へ連れていかれるんだろう。まったく、とんだクズ野郎が居たもんだぜ……」
パルカ屋の主人はそういうと言葉を切って、ドルディノのじっと見つめだした。
視線に気が付いたドルディノは、初めは無言で見つめ返していたがやがてその気まずい沈黙に耐えられず、話し掛けた。
「あ、あの……?」
「……よし、まあこっちへ来い」
男の伸ばされたごつい手が、ドルディノの肩をポンポンと優しく叩いた。ついで絶妙な力加減で肩を掴まれたと思えばぐいっと体を前に押し出され、主人の隣りに並ぶ格好となると急に歩き出したので、体を押されるままドルディノも足を動かし始めた。
「え、あの……どこへ……」
「いいからいいから」
「はあ……」
こうしてほぼ強制的に連れていかれた場所は、主人の店の中だった。
主人はドルディノを小さい椅子に座らせると奥へと姿を消し、暫くして戻ってくるとその手にはコップが握られていた。
コトン、とテーブルの上に置かれたコップを覗き込むと、赤い液体が目に映った。ついで、甘酸っぱい匂いが鼻孔をくすぐる。
思わず唾が湧いて、それを飲み下す。
「ほら、飲んでみろ。パルカ水だ、うまいぞぉー?」
満面の笑みを顔に浮かばせながらそういう主人。
ドルディノは主人とパルカ水を交互に見つめた後コップに手を伸ばし、甘酸っぱい匂いを醸している赤い液体を、喉を鳴らしながら飲み下した。
酸味と甘みが上手に調和されつつ、さっぱりした後味で美味しかった。
そして何故か二つほどパルカをお土産に持たされたドルディノは、店の主人と笑顔で別れると船へ戻る為、町の入り口へ向かって歩き出した。
だいぶ遅くなりまして、すみません。 読んでくださっている皆様、ありがとうございます。




