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遅くなりました。少し長めに書いてありますm(_ _)m

 「来たか」

 歩いて来ていたフェイが、頭と呼ばれている者の目前で立ち止まり軽く頷いた。

 「はい」

 「お前に訊きたいことがあるんだが……この青年は」

 そう言って視線がドルディノへ落ち、フェイの楽しげなそれも注がれた。

 その時。

 「お前っ! お前だったのか裏切り者が!!」

 「くそう! いつか殺してやるからな!」

 「死んじまえ!!」

 跪かされている奴隷商人達が、口々に怒声を上げ始めた。殺意が込められたその言葉に反応して、ドルディノやフェイの視線が商人達の間を泳ぐ。

 商人達の誰もが深く眉根に皴を寄せ、鋭い眼光で以て、憎々しげに睨みつけてきていた。憎悪で歪められた口元から、赤いものが滲み出てている者や、立ち上がろうとして止められたのだろう、頭を押さえられてはいるが浮いたお尻を足首につけることはせず、僅かに肩を左右に揺らしている者もいる。

 もし、彼らの両手首が縛られておらず自由だったならば、一斉に襲い掛かって来ていたに違いない。

 そう彷彿させてしまうような光景だった。

 肌で感じるぴりぴりとした空気に、思わず距離を置きたい心境に駆られるが、今は身動き出来る状況ではない為耐えるしかない。

 様子を窺っていることに気付かれて因縁をつけられては堪らない。

 ドルディノは肩越しにやっていた視線を正面へ戻し、自分から一メートルも離れた所に立っていないフェイを見上げた。

 じっと見つめていると視線を感じたのか、フェイがドルディノを見下ろした。二人の視線が絡み合い、双方黙ったままで見つめ合う。

 すると、ふっとフェイが口角を上げて僅かに微笑んだ。

 「頭。この青年は……捕まってた側ですよ」

 突然話し掛けられたのにも関わらず、呼び掛けられた彼は落ち着いた様子で「そうか」と呟くように答えた。

 その声音に惹かれたドルディノの意識が、頭と呼ばれている人物へ向かう。

 ピンと伸ばされた背筋。一つ一つの動作は無駄がなく、しかし隠し切れない気品が溢れ出ている。

 整った顔立ちで、茶色がかったくすみのある朱色の双眸からは強い意志を感じさせる。 

 喉元から腰までは柄もないシンプルな白に包まれており、くびれには濃い緑一色の布を巻きつけているが、脇腹まで引かれた端は巻き付けた上部をくぐって下へと垂れ、余った布地は大腿部に差し掛かる長さで終えていた。

 袖口から伸びている筋肉質な腕は、腰に携えている剣の柄に添えられていた。

 何かあった時にはすぐ動けるようにしているのだろう。

 「解いてやれ」

 頭と呼ばれる者がそう口にすると、すぐに砂利を踏みしめながら近づいてくる靴音が聞こえ出し、数秒後にはドルディノの縄が解け、自由を手にしていた。

 何の跡もないことを視覚で確認したドルディノは、赤毛の人物の状況を確認すると、なんとなくフェイへ視線を向ける。

 彼は、僅かに口角を上げて、微笑んでいた。

 「ルイ」

 呼び掛けられて、フェイの視線が頭と呼ばれている人物へ移った。目を合わせていたのは一瞬で、それ以外彼の口から言葉が飛び出すこともない。

 そして次の瞬間には、フェイはドルディノを見ていた。

 「ほら、いくよ~」

 いつもの間の伸びた口調でそう言うと、フェイは顎をしゃくった。ついで、視線を赤毛の人物へ向けると「君もだよ」と一言付け加え、踵を返して来た道を戻り始める。

 「あ……」

 はい、と返事をしようとしたドルディノは、足を踏み出すその瞬間、頭と呼ばれている人物を一瞥した。しかし彼は鋭いその視線を、未だ怒りを燻らせ、爆発させる瞬間を待っている者達へ向けたまま動かさない。

 何か言葉を掛けるべきかと悩んだが、数メートル程先に進んだ場所に立っているフェイの双眸が「早く来い」と無言の圧力をかけてくる。

 ―――イリヤ君の知り合いも捜したいけど……この人達の邪魔をしてもいけないよね……。

 数秒でそう結論づけたドルディノは、今度こそフェイに向かって歩き出した。

 しかし、その足も数歩行った先で止まる。

 気配がないことに気が付いたのだ。

 背後を振り返ると、赤毛の人物は先刻と一寸違わない場所に立っているまま、強い意志を宿らせた青色の双眸で見据えていた。

 動く気配など、微塵もない。

 その姿を見て、ドルディノの中に焦りが生まれる。

 戻って、無理矢理引っ張って来るべきか否か。

 様子を窺うため、ドルディノの視線が背後のフェイへ向いたとき。

 「何をしたいのか知らないが、それはルイに訊くといい。奴が良く知っている」

 その一言が耳に入り、ドルディノは素早く振り向いた。

 赤毛の人物の双眸は、頭と呼ばれているその人へ注がれていた。

 僅か数秒その場に立っていた彼だったが、一歩足を踏み出した。砂利を踏みしめながら赤毛の人物の側を通り過ぎていき、睨む相手が居なくなり虚空を見つめていた青色の瞳は、そっと閉じられる。

 次に瞼を開けた時、赤毛の人物の双眸は正面を見据えていた。その足が、ゆっくりとした動作で一歩踏み出される。

 こちらへ向かって歩き出した姿を見て安堵したドルディノは身を翻し、フェイの元へ向かったのだった。



 「はい。じゃあここに座って~」

 そう言ったフェイは、真っ青な空の下、ダークブラウンの木製の円盤に脚を付けただけの、簡易に作られた椅子を指示した。

 同じくダークブラウンで簡易的に作られた小さいテーブルがその中央に置かれてあり、それを囲む様に一定の間隔で四つ椅子が並んでいる。四方には同色の太い柱が立っており、その長さはドルディノの身長よりも頭四つ分くらい上で、柱の頂には雨露を凌ぐために作られた八つ角がある木製の屋根があった。その真ん中は綺麗な円で切り取られており、代わりにガラスが嵌められ空の様子が窺えるようになっていた。

 ほんの少しこ洒落た、簡易的な休憩所というところだろうか。

 他にも同じものが距離を空け点々と作られており、親だろうか、一緒に子供と座ってお菓子をつまんでいる者達や、テーブルに俯せている青年もいた。

 ガラス張りにしてある屋根から陽光が降り注いでいる為、それが心地よく、眠りに誘うのだろう。見ているとこちらまで眠たくなってくる。

 「ほら~」

 そうフェイの言葉が聞こえ、ドルディノは言われた通りに腰を下した。背凭れがない作りの椅子なので、少し背中が寂しく感じ、同時に背筋をピンと伸ばすことを意識する。

 気を抜いたら背中から倒れそうだ。

 「さあ、君も」

 そう言いながらフェイは空いた椅子を一瞥し、座る様に促した。しかし赤毛の人物は休憩所の前に立ったまま身動きせず、口元を引き結び、睨み付けてきていた。

 まるで、何かの仇を見るように。

 その気迫に少し体を後ろに引いたドルディノがフェイの様子を窺うと、彼は相変わらずの飄々とした相好を崩さぬまま、その視線を受け止めている。

 ―――わぁ……この人、なんか……読めない人だなぁ……。

 「どこに連れていくのかと思えば……。なぜ移動する必要があるんだ? ボクは忙しいんだよ!」

 そう叫ぶように言った赤毛の人物は素早く踵を返し、駆け出した。

 「あっ!」

 ぐんぐん遠ざかっていくその背中を見て焦ったドルディノが立ち上がり、その反動で傾いた椅子がガタンと乾いた音を立てた。素早く一歩足を踏み出して追いかけようとした瞬間。

 「訊きたいことがあるんじゃなかったの~?」

 わざと少し大きめの声色でそう言ったフェイの言葉が聞こえ、思わず足を止めた。

 数メートル前を行っていた赤毛の人物もピタリと動きを止め、素早く振り返ってドルディノの肩越しにフェイを見る。

 初めは驚いた顔をしていた赤毛の人物だったが、すっと目を細め眉根を寄せた。

 その表情は、何かを疑っていると言わんばかりだった。

 「……あんた、何者なんだ? あいつらを捕まえて……何をするつもりなんだ?」

 たっぷり数秒待った後、開くことがないと思われた赤毛の人物から紡がれた言葉はそれだった。表情は先刻と変わらず、睨み付けている様に二人を見ている。

 一方問われたフェイはにこやかな表情を崩さぬままだ。

 「なんだ、訊きたいのはそんなこと? ……まあ、悪者を捕えてすることはいくらでもあるけど~。……君には、関係ないよね~? それだけなら、おいらも失礼するよ~」

 「っ待て!」

 身を翻しその場を離れようとしたフェイの背中に、赤毛の人物が制止の言葉を叫ぶ。

 フェイが足を止めたのを見た赤毛の人物は駆け出し、彼との距離を縮めた。それは同時にドルディノに近づくこととなり、赤毛の人物はドルディノの一メートル手前で止まった。

 「あんた……あんたは、こいつが捕まっていた事を知っていた……」

 そう言ってドルディノを一瞥したあと、言葉を続ける。

 「そしてあんた自身は、やつらを捕まえていた者達の一味だよな。なら、あいつらに捕まえられていた……『商品』にされようとしていた人達の顔も、分かるのか? 解放された彼らが今どこにいるか知っているのか!?」

 赤毛の人物の真剣な表情を見たドルディノは、どれだけ本人にとって大事な事を訊いているのかが伝わって来て、胸を打たれた。

 まるで、自分の事のように感じ、息苦しくなる。

 自分だって、大事な人を、捜しているのだから。

 ドルディノはたまらない気持になって振り返り、背後のフェイの背中をその目に映した。

 心臓の鼓動が、僅かに速まる。

 まるで自分がその質問をしたかのように、フェイの答えを今か今かと固唾を吞んで待つこと数秒。

 ようやく彼は、重たい口を開いた。

 「……そうだね~。故郷を訊いて、そこに辿り着けれるまでの距離分の代金は握らせて、解放してる筈だよ~」

 「ほ、本当か!?」

 先刻まで暗かった声色が、まるで息を吹き返したかのように明るく響いた。

 それまで感じていた胸の息苦しさが一瞬で消えたドルディノの表情も、緊張で強張ったものから微笑みに打って変わり、無意識に肩に入れていた力が抜け落ちる。

 ―――よかった……。皆、無事なんだ……。じゃあ、イリヤ君の友達もきっと……。

 そう思い、思わず瞼を伏せた。

 「その、あ、ありがとう……」

 背後からそんな言葉が聞こえ、ドルディノは振り返った。

 灰色の双眸に映った赤毛の人物は、おずおずとだが、僅かに微笑んでいる。

 「じゃあ、ボクはこれで!」

 そう言ってそそくさと、逃げるように身を翻し今度こそ走り出した。

 もしかしたら、照れていたのかもしれない。

 そう思ったら、僅かに心が温かくなり自然にドルディノは微笑んでいた。

 赤く短い髪の毛を靡かせながら小さくなっていくその背中が消えるまで見つめていると、「さて」と声が聞こえた。

 「おいらは船に戻るけど、君はどうする~?」

 「あ……」

 そう呟いたドルディノは、僅かに逡巡する。

 ―――イリヤ君が目が覚めた時に、なにか美味しいものを食べさせてあげたいな……。

 「あの、まだ船……出ませんよね……?」

 「うん? そうだね~。まだ大丈夫だと思うよ~」

 「じゃあ僕……ちょっと、町の中を見てきてもいいでしょうか?」

 「いいんじゃない~? じゃ、またね~」

 背中を向け、ゆっくりとした足取りで歩いて行きながら、フェイはひらひらと手を軽く振った。

 去っていくその背中を途中まで見送ったドルディノは、彼とは反対の方向へ歩き出した。



 点々とあった休憩所から出てみると、わりと側に町の入り口と、船着き場があった。

 海に近いせいか、潮の含んだ香りが風に乗って漂い、髪を弄んで通り抜けていく。

 意識すれば波音も聞こえるだろう。

 目を凝らしてみれば、少し離れた所に幾つもの船が停留しているのが見える。

 ―――フェイさん達の船は……どれだろう。

 幾つか並んで見える船に視線を走らせながら、つい、イリヤを残してきたそれを探す。が、どれも同じように見えて分かり辛い。

 ―――まあ、とりあえず、先に買い物かな……。

 そう思い直したドルディノは早速踵を返し、町の奥へと進んで行った。

 中央通りを歩いていると、お喋りを楽しそうにしている女性達や、重たい荷物を両手で抱え運んでいる中年の男性、元気よく声を上げて道を走っていく子供達、客を呼び込もうとしている商いの声などでとても賑わっていた。更に風に乗っていい匂いが漂ってきて、鼻孔をくすぐる。

 特にお腹が空いているわけではなかったのに、美味しそうな香りをかぐと腹の虫が鳴きそうになるから不思議だ。 

 燦々と降り注ぐ陽光で町中が明るく活気がある。まるで先刻まであった屋敷の庭での争い事が、初めからなかったような気さえしてしまう。

 ―――でも、実際にあったことなんだ……。

 ぐっと拳を握り、いつのまにか止めていた足を、ゆっくりとした足取りで歩き出す。

 ―――今は、どれを買うかを考えよう。 えーと……いっぱいあるしなぁ。どれがいいかな。

 見えやすく買いやすいようにそれぞれの店が、台の上に品物を並べて客を呼び込んでいた。

 視線を走らせれば、野菜や果物、活きのいい魚。女性が好きそうな飾り物の類や、あらゆる雑貨品などがおいてある店もある。

 ドルディノは足だけはゆっくりと動かし、それぞれの店に置かれてある品物を、道を通る人達の合間を縫うように歩きながらしっかり吟味していった。

 そうして歩いていると、ふと赤い物を目の端に捉え、足を止める。

 それは、パルカだった。

 思わず手を伸ばしそうになるが、触れる前にその腕を下す。

 ―――そういえば、結局パルカ水飲んでないなぁ……。

 無意識に微笑みながらそんなことを考えていると。

 「客さぁん! 美味しいパルカはいかがかい! さっぱりできるぞー!」

 そんな言葉と同時に店の陰から主人と思われる男性が姿を現した。膝丈まである赤い布を腰にまいている。

 布が赤いのは、パルカの果汁が飛んでもいいようにそうしているのだろうか。

 「どうだい! 一つ」

 そう張り切って声を掛けてくる店の主人に、「そうですね……」と小さく返事をする。

 そこでドルディノは、初めてパルカの食べ方を知らない事に気が付いた。

 祖国では見たことがなかったのだ。

 変な質問をする奴だと、思われなければいいなと思案しつつ、食べ方が分からない事にはどうにもならないため、意を決して口を開く。

 「でもこれ……どうやって食べたらいいんでしょうか?」

 「ああ、そりゃーな……」

 そう言うと主人は手の平に余る大きさのパルカを一つ掴むと、小めに突起している部分に、ズボンのポケットから取り出した小型のナイフを差し込んで切れ目を入れる。そして切り込んだ赤く薄い皮にナイフの先を僅かに差し込んで引っかけたあと、そこを指先で摘まんで引っ張り、上手に剥いていった。

 露わになったパルカの果実も、皮と同様に綺麗な赤味を帯び、甘酸っぱい香りが鼻孔をくすぐると共にほんのり赤味を帯びている小さな滴の玉が生まれ出て、実を伝ってゆっくりと下に滑り落ちていく。

 「これで終わりだ。あとは噛り付いてもいいし、小さく切り分けてもいいしな! 実を()して飲み物にしても美味いぞ!」

 「色々と出来るんですね……。ちなみに、病気の人とかにも……?」

 「ああ、負担はねぇんで、いいと思うぞ。買うか?」

 「そうですね……では、一つほど……」

 「まいどあり!」

 そう言うと主人は新しいパルカを一つ掴むと店内へ姿を消した。といっても一瞬のことで、すぐに戻ってくると、白い紙袋をドルディノに突き付けてくる。

 「あ、おいくらで……」

 「80ピーロだ!」

 「はい」

 そう答え、ドルディノは銅色のコインを一枚と同じ色の小さいコインを数枚ほど手に取り、それを差し出されている店の主人の手の平にチャリン、と落とした。

 「どうもどうも!」

 踵を返したドルディノの背後で、店の主人の元気のいい声が聞こえ、間髪入れず他の客を呼び込むそれが響き渡る。

 微笑みながら少し歩いた先で、おもむろに空を見上げると灰色の双眸に澄んだ青空が映りこんだ。柔らかそうで、真っ白いふわふわの雲がゆっくりとした速度で漂っている。そこに小鳥が囀りながら羽を羽ばたかせ、ピチチチチ、と飛んで行った。

 燦々と降り注ぐ陽光の光が眩しくて、額に手のひらを翳しながら小鳥が飛んで行った方向へ、視線を向ける。

 ―――ああ……なんか、すごくほっとする……。色々、あったせいかな……。

 体を包み込む太陽の光が、体を少しずつ温めてくれる。しかし、度々心地よい風が吹き通る為、決して暑いことはなかった。丁度良い温かさなのだ。

 ―――さて……と、これからどうしようかな……。

 そう思い、顔を正面に向き直した、その瞬間。

 ドン! と、背中に振動が走った。

 

 そしてピリッとした、痛み。


 ―――な、に……?

 背中を、誰かが押している感触がすると同時に、脇腹が僅かに痛む。

 じんじんと、存在を訴える、鈍い痛み。

 ドルディノは肩越しに背後を振り返った。

 それと同時に周囲がざわめき始め、誰かの甲高い叫び声や「医者を呼べ!」という言葉が耳に入り、突然で何が起きているのか理解できなかった頭が、ようやく回転し始めて状況を呑み込む。

 誰かが……男が、自分の左脇腹に、刃物を刺していたのだ。

 「く、そおおおぉぉぉぉ……!!!」

 どこかで聞いた声音が耳に届き、脳裏で反芻される。

 そして野太い叫び声を上げながら、男が刺しているナイフを掴んでいる手にぐっと力を込め、鋭い刃がドルディノの肉を無理矢理に切り裂いた。更に深く、ずぶりと刺し込まれる感触と共に、今度は鋭い痛みが走る。

 「っ……!」

 いくら普通の人とは違い体が丈夫であっても、これだけ力を込められれば掠り傷では済まなくなる。

 ドルディノは刺されている脇腹に力を入れ、それ以上深く刺し込まれないようにすると共に、ナイフを持っている男の手首を左手で力強く掴み逃げられないようにすると、予想外の行動だったのだろう、驚愕を露わにしている顔の頬を、バシン! と平手打ちした。

 見事な音が響き渡ると同時に頬を叩かれた男の首が真横に曲がり、そのまま体が宙を傾いていく。

 そして男の体はドサッと重たい音を響かせながら、横に倒れ込んだ。

 「っ……はっ…………」

 いつの間にか出来ていた野次馬の人だかりから、甲高い叫び声や煽り立てるような言葉が飛び交い始め騒々しくなる中、ドルディノは刺さっている脇腹のナイフを握ると、一応手加減をしながら叩きとばした男の顔に視線をやった。

 ―――……やっぱり……。この男性、あの人だ……。

 脳裏では、まだ暗い部屋に囚われていた時「リアンは死んだ」と叫んでいた顔と、フェイと屋敷から逃げる際にナイフで切りかかって来た男のそれが浮かんでいた。

 あの時、フェイは放っておいてもいいと言っていた。それは、仲間に捕まるからだと思っていたが……どうやら、逃げおおせていたらしい。

 ドルディノは一歩、後ろに足を引く。と、ガサッと何かが踵に当たった。

 視線を落としてみると、それは先刻イリヤにと買ったばかりのパルカだった。

 咄嗟に紙袋を落としてしまったようだが、それが功を成したのだろう。紙袋の隙間から覗く赤い身は、潰れておらず、艶々と鈍い光を放っていた。

 ドルディノは少し腰を屈め右手の指先で紙袋を摘み胸に抱えると、周囲の人達が未だ倒れこんでいる男の処分についてあれやこれやと叫び相談している中、ナイフを隠しつつ人だかりの背中に隠れるように移動しながら、一歩一歩後退し、野次馬たちの最後尾まで来るとついには背中を向けて駆け出したのだった。



 二、三軒ほど通り過ぎて回り込み、目に映った暗い路地へ身を滑らすように入り込むと、壁に右手をついて体重を少し預け、僅かに荒くなっていた息を整える。

 走ったせいか、汗が滲むまではいかないものの、体が熱を持っていて、暑く感じた。

 数秒して息を整えたあと、左の脇腹に刺さったままのナイフに視線を落とすと同時に、ぐっと柄に力を入れて握りしめる。

 刺さっている刃を抜くのは、さすがに少しの勇気を要す。

 歯を噛みしめ、ずくずくと走る痛みを耐えながら肺に大きく空気を入れ、ゆっくりとそれを吐き出す。

 そうしてくると、僅かにすさんでいた感情が抑えられ、少しずつ落ち着きを取り戻していった。

 それを二度程繰り返したあと意を決し、ナイフを抜くために、柄を、更に強く握りしめた。

 その時。

 じゃり、と靴の裏が小石と擦れた音がし、同時に誰かの気配を感じて素早く路地の入口へ視線を向けた。

 だが、入り口からは眩しいほどの光が射しこんで来ている為、侵入者は光背を背負っている形になり、ドルディノからはそれが誰なのか全く分からなかった。

 ただ分かるのは、背が自分より低いことだけだ。

 砂利を踏みしめる音をさせながら、ゆっくりとした足取りで少しずつ近づいてきたその人物は、ドルディノから一メートル離れている手前で足を止めた。

 何をしたいのか、目的が分からず侵入者の動きを固唾を吞んで見守っていると、閉ざしていた重い口を、初めて開いた。

 「刺されたのは、あなたですよね」

読んで下さる皆様、ありがとうございます。

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