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「ほら~行くよ~」
船の薄暗く狭い道を先頭に立って歩いていたフェイは、足を止めて背後のドルディノを振り返りそう言った。
もう何度足を止め、同じ言葉を青年に投げかけただろうか。
面倒なので、そろそろいい加減にして欲しいのだが、口に出すことはしなかった。
フェイがそう声を掛けると、青年はすぐに歩き出してついてくるのだから。
少年が気になって仕方がないのだろう。だから後ろ髪を引かれて戻って来た道を振り返る。
その気持ちは分からなくもない。
足を止めていたドルディノが歩き出し、フェイも動かし始める。再度二人の靴音と床の軋む音が、響き渡り始めた。
ドルディノは、船に乗ったのは初めてだった。歩く度に体が左右に揺れ、時折壁に手をついて体重を預け、バランスを取りながらではないとなかなか前に進まない。
苦戦しながら一歩一歩進んでいた時、足元にやっていた視線を正面へ向けると、目前を歩いているフェイの真っ直ぐに伸びた背中が目に映った。その瞬間、無意識にドルディノの足が止まって、その広い背中をじっと見つめる。
と、ある事に気づいた。
彼は、壁に凭れかかる事が殆どないまま、なんでもないように先を進んでいたのだ。
自分との差に、驚きを覚えると同時に、感嘆の念を覚える。
自分も、慣れたらフェイの様に颯爽と歩くことが出来るのだろうか。
―――まあ、この船に乗るのもイリヤ君が元気になるまでの間だけだから……慣れる前に船から降りそうだけど……。
「お~い」
その声で意識を引き戻されたドルディノは幾度か瞬きを繰り返した。背中を向けて前を歩いていた筈のフェイは、今は足を止め、振り返って自分を見つめていることに気が付き、慌てる。
「あっ、すみません……」
そう言って足を動かし始めたドルディノにフェイは肩をすくめて見せると、身を翻した。
離れていくその背中を見ながらイリヤの様子を見に行きたい自分を叱咤し、重たい足を動かしてドルディノもその場を後にした。
甲板に出た瞬間、眩しい光に襲われてドルディノは素早く目を逸らすと同時に、手の甲を額に翳していた。そして目を眇めつつ正面に向き直すと、指の間から陽光が入り込んできたのが眩しく反射的に目を細める。
朝日だ。
―――いつの間にか、夜が明けてたんだ―――……。
肌を刺すようだった冷気は昇った朝日の影響か、少し和らいでいた。陽光に照らされた体はぬるま湯に浸かっているようで、じんわりと熱を感じ、心地いい。時折吹く潮の香りを含んだそよ風は、優しく髪を弄びそれが頬をくすぐって、少しこそばゆく感じる。
―――何日ぶりかわかんないけど……ああ……気持ちいい―――……。
鼻孔をくすぐる、海の香り。
耳朶を打つ、波間の音。
―――ああ、懐かしい……。
どうしてだろう。
ここ数日、目まぐるしかったからか。
それともイリヤを預けたことで、救える希望が見出せ安心したからか。
ドルディノの目尻に、涙が滲んだ。
潮の香りを含んで湿気を帯びているそよ風に身を任せ、ぼうっと立っているドルディノの姿を目に映しながら、フェイはじっと様子を窺っていた。
君付けで呼んでいるイリヤは彼の兄弟ではなさそうだ。
青年の服装は多少汚れてはいるものの生地や作りも細かく色鮮やかであった雰囲気がある。それでいて動きやすい機能性重視の物。
彼は、不思議な雰囲気を身に纏っているように思う。見た所、いいところのお坊ちゃん、といった感じがするのだ。
だが、ただの『いいところのお坊ちゃん』が、果たしてあんなに喧嘩慣れしたような素早い動きが出来るものだろうか……?
それに、握力も尋常じゃない。
俄然、興味が湧く。
物思いに耽っているフェイの耳に突如、カツン、カツンと高い音を響かせながら颯爽と近づいてくる靴音が耳に届いた。それは瞬時にある人物を脳裏に浮かび上がらせると共に彼の意識を引き戻し、更に口元を引き攣かせた。
背後に迫っている人物が自分が想像している者と一致するか否か、振り向いて確認したいが、したくない。
そんな複雑な心境の中、ゆっくりと、顔に笑顔を張り付けたままフェイは肩越しに振り返り―――……その双眸に、ヒールを履き踝まで覆い隠している長いスカートの裾が映った瞬間そのままピタリと止まった。
高らかに響く靴音に気が付いたドルディノは、背後を振り返った。
先刻自分が出て来た所よりも更に奥の甲板から、背が高く、白いドレスに身を包み、ややガッチリめの体躯に背中まで真っ直ぐに伸びている金髪を揺らしながら真っ直ぐ向かって来ている人物がいる。
向かい風の中を突き進んでくるその人物の胸元では縁を飾っているレースが踊り、リボンは宙を舞っていた。
「フェイさん、あの人は―――……」
誰、と訊こうとしたドルディノの口元がピタリと止まる。
何故だろうか。先刻は普通に元気そうだったのだが今や倒れそうに見える。
「フェイさん……あの、大丈夫ですか……? 気分悪いなら、休んだ方が……」
「や~……だいじょうぶ……」
こちらに向かって来ている人物へ揺るぎない視線を送りながらそう答えるフェイの顔色が、少し悪いように思えて不安になる。
あの何事にも意を介さない、軽薄な印象を与えてきていたフェイが突如、何か良くない状況に陥ってしまっている様に、動揺しているのだ。
顔色を悪くさせるほどに。
―――どうして急に……。僕の知らない所で今、何か起きたんだろうか……。
ドルディノに見つめられていても、彼は一点を見据えている。それが少し気になって、ドルディノもカツン、カツンと歩いてくる人物に視線を向けた。
先刻より空いていた距離が縮まっているおかげで、迫ってきている人物の姿がはっきりと灰色の双眸に映った。
全体的に白く、よく見ると胸元が見えるほどに抉れている襟はふんだんに使われたレースで隠され首元を覆っている。みぞおちには同色の細いリボンが飾り、腰から踝までをふんわりと包み込んでいるスカートと、その先からは淡い黄色のヒールが艶やかに覗いていた。
―――なんだ、女性―――……。…………女性?
ドルディノの首が、僅かに傾いた。
―――なんだろう……女性……というより、この人は……だん―――……。
「ドラーグ……また女そ」
その瞬間フェイの声が、んぐ、とくぐもって聞こえると同時に、彼の首元では銀色に輝く小型のナイフが鋭い光を放っていた。身じろぎすると皮一枚切れそうな程近くに突き付けられている刃の面には、先刻よりも顔色を悪くさせたフェイがはっきりと映りこんでいる。
緊張で湧きあがった唾でさえ、飲み下すのを躊躇し、息をすることすら、許されない。
殺伐とした雰囲気を放っている、ドラーグと呼ばれた人物は息も絶え絶えなフェイを目を細くして見つめながら、血のように真っ赤な唇で笑みを作った。
「死にたい……?」
囁かれた言葉から覗く、確かな殺意。
緊迫した重い雰囲気が、三人の間に横たわる。
同じ船の中にいるのだから、フェイにナイフを突きつけている人物も仲間ではないのか。
それを考えると、手を出すべきか否か、ドルディノには分からなかった。
けれど。
本当に、フェイの命を脅かすというのなら、その時は―――……。
静かな決意と共に、ドルディノの握った拳に力が入る。
そして、フェイの目前で笑みを作っている真っ赤な唇の、口角が上がった。
「ねーえ! 何してんのー!?」
突然、上から声が降って来て、驚いたドルディノは素早く空を見上げ視線を走らせた。眩しい陽光が目に染みて思わず目を細めながらも、凝らしてその声の人物を捜す。
と、一点でドルディノの視線が止まった。
―――なんだろう、あれ……監視台……? みたいな……?
船体から真っ直ぐに伸びている棒の途中に、それはあった。落ちないよう、周囲には一定の間隔で柵のようなものが施されている。声の主は、その柵から身を乗り出してドルディノ達を見ていたのだ。
―――うわぁ……危なっ……! あ、速い……。
ドルディノが見守っている中、身を乗り出して見降ろしていた人物は、張り巡らされているロープを手慣れた様子で素早く伝い、あっという間に甲板に降り立つと、ととととと、と身軽そうに走って近づいてくる。
小走りでそよ風と共に側にやって来たのは、両頬から鼻に向かってそばかすを散らせている、茶髪の少年だった。
「へへっ」
そう言ってドルディノに視線を合わせた後、更にナイフを首元に押し付けられているフェイとドラーグを見て、首を傾げつつ両腕を後頭部で組んだ。
「ね、何してんの?」
そう問う少年の顔は、満面の笑顔。
「お前……わかってて……訊いてんだろ……?」
いつもの飄々とした雰囲気は一掃され、余裕が完全になくなったフェイの言葉に、少年はぷっと吹き出すと腹をかかえて大声で笑いだす。
「あはははははははははは! やっばいよこれ! ちょー受けるから!」
少年の軽快な笑い声が辺りに響き渡り、ドルディノは笑う少年を茫然と見つめた。
フェイは握った拳をふるふると震わせ、眉間に皴を寄せてぴくぴくさせている。首元にナイフを突きつけていたドラーグは無表情で少年を見つめたあと、軽く溜め息を漏らすと背筋を伸ばし、同時に獲物をカチャン、と折って仕舞いこんだ。
どうやら、ナイフは折り畳みだったらしい。
命を脅かしていたナイフが消えて、フェイは素早く一歩後ずさると首元に手の平を当てて、肌を撫で、異状がないか確かめる動作をする。
「フェイ?」
ドラーグと呼ばれた人物が発した言葉で、その場にいた三人の視線がその人へ向けられた。
「次……それで呼んだら殺すわよ?」
にっこりと微笑えみながらフェイに言っているのを見て、ドルディノの背筋がぞわっとする。
鳥肌が立った。
「で。 このかわいこちゃん誰?」
ドラーグが視線を寄越してきて、ドルディノの心臓が強く跳ねる。
―――か、かわいこちゃん……?
何故だか危機感を覚えた。
今や隣の少年からも好奇心あふれる視線を向けられており、ドラーグの獲物を値踏みしているようなそれも全身で受けながらドルディノはSOSの気持ちを込めてフェイを見つめる。
すると、フェイは苦笑しながら、先刻までナイフを突きつけていたドラーグに視線を向けて口を開いた。
「こっちはシャリー。そのガキんちょは、モー」
「モルスってんだ! でも皆モーって呼ぶんだ。よろしくなー! ところであんちゃんの名前は?」
「え、あ……僕は、ドルディノ……」
「ドルかぁ! よろしくな! ところでフェイ、お頭はまだ帰ってこないのか?」
「そうだね~おいらは見てないかな~。まだあっちで片つけてるんじゃないかな~」
語尾が延び、いつもののんびりとした口調に戻ったフェイを見て、なんとなく落ち着いた心地になり、そんな自分に気が付いて苦笑した。
今の彼に、すっかり慣れてしまったらしい。
「ふぅん……。おれが言うのもあれだけど、なんで頭は奴隷商襲うんだろう?」
「さあな~。訊いたことあるけど躱されたし~」
「ふぅん~ま、いいか」
「そうよぉ。コドモには関係な・い・の。アンタ、さっさと上に戻って監視続けなさぁ~い?」
右脇腹に手を当てて軽く腰を折って身を乗り出したシャリーが人差し指をモーに向けながらそう言うと、少年はちぇ、と拗ねたように呟くと同時にくるりと回り背中を向けた。
来た時とは正反対にゆっくりとした足取りで歩いて行くモーの小さい背中を見つめながら、頭の中では少年の言葉が反芻されていた。
―――奴隷商を襲う……。襲うってことは……今回みたいに『商品』にされた人を、助けてきた……?
先刻のモーの言葉から察するに、今まで繰り返しされてきたことに違いない。
ということは、これからも繰り返す可能性がある。
―――ここに、居られたら……もしかしたら……。でも……。
脳裏に、センザの怒鳴り声が甦る。彼は確かに、あの子は死んだと言ったのだ。
けれどそれも、フェイが言った通り信じるに値しない言葉でもある。
結局は、己次第。
何を信じ、何を疑うか。
息苦しさを感じ無意識に握りしめた拳に、更に力を込める。
そっと瞼を伏せて、たっぷり数秒経ってからゆっくりと開いた。
その灰色の瞳には、どこまでも続くサファイア色の海原が映りこんでいた。
耳を澄ませば、海鳥の鳴く声や波間の音、波が何かにぶつかり、飛沫を上げているそれが聞こえてくる。
脳裏に浮かぶ情景は、リアンと森で会い、海辺に座ってよく波間の音を聴いていたこと。
それを思い出し、今目前に広がっている海原に重ねて見つめる。
そうしているうちに、ざわめいていた心が段々と落ち着きを取り戻していった。
そして、ドルディノは、決めた。
―――自分で見たものしか、信じない。あの男の言葉は―――……信じない。
その瞬間、今まで胸につかえていた重いものが消えて、心が軽くなり、自然と笑みがこぼれた。
―――あ、そういえば……。
「フェイさん、僕ちょっと向こうに戻ります」
「え? 向こうって?」
目を点にしてそう訊き返してくるフェイに、ドルディノは続けて言った。
「えっと……捕まってた所に。イリヤ君の友達がそこに居るらしいんです。イリヤ君、目が覚めたら絶対捜しに行くって言う筈だから……。だから、ちょっと行ってきます!」
「なっ! ちょっとまっ…………てって、もういないし」
後者の言葉を言い放つと同時に素早く駆け出したドルディノは、飛ぶようにタラップを踏んで行ってしまった。
フェイの口から紡がれていた制止の言葉はすぐに尻すぼみになり、あっという間に見えなくなってしまった背中をフェイとシャリーが船の縁から並んで見つめる。
「あらぁ……あの坊や、敏捷ねぇ……ふふふふ……ああいう子、すきだわぁ……」
そう呟いた赤い唇が艶やかに光を帯びて口角が上がる。
隣でその獲物を狙うような猫なで声を聞いてしまったフェイの背筋に、ぞわっと悪寒が走った。




