第3章 ジャスミン(仮名)が、ジャスミンになった件について その2
私は、そっと辺りを見回した。
六畳ほどの狭い医師休憩室には二人の他に誰もいない。
(ちょっとくらい、触ってみてもいいわよね)
三度目だけど、言っておく。
私はけっして百合じゃあない。可愛い女の子を見ても好きになったりしないし、キスしたいとか触ってみたいとか思ったりすることは決してない。
これは、そういうことじゃない。
巨乳ちゃんの金色に光るうなじは、たまたまこの時間に夕日が部屋に入り、そこにたまたま彼女の体が存在していたという偶然が作り出した芸術作品なんだ。
今、触らなければ一生触ることはできないぞ。
もちろん、私が触ればきっと彼女の心を読んでしまうことになる。
それは、彼女を裏切ることかもしれなかった。――でも、
(だって、触りたいんだもん!)
おそるおそる手を伸ばして、私は彼女の首に触れた。
温かかった。柔らかかった。
と同時に、彼女の意識が入ってきた。
(ジャスミン(仮名)ちゃんは、私が守るんだ)
え?
あわてて、うなじから手を離した。
巨乳ちゃんは頭をもぞもぞさせると、顔をあげて寝ぼけまなこを開いた。
「あ、ジャスミン(仮名)さん、なんで? やだ、わたし寝てた?」
「え、あ、うん。もうすぐ勉強会だから、医局に行こう」
「やだぁ、顔変じゃない? 寝跡付いてない?」
「大丈夫よ」
「あー、なんか変な夢見てたの。寝言とか言わなかった?」
「言ってないよ。すごいイビキだったけど」
「うそっー!」
「うそうそ、まあ可愛い寝顔だったわよ」
「ヤダ、恥ずぃ」
びっくりした。
どんな夢を見てたのかは知らないけど、彼女が「私を守る」だなんて。
これまでの二十年ちょいの人生で、そんなこと言ってくれた人はいなかったな。強いてあげれば、前の担当官だった「ぬる癇」さんくらいか。
一体、何からどうやって守ってくれるつもりなのかわからないけれど、正直悪い気はしない。
同時に、少し胸が痛んだ。
やっぱり、勝手に心を読むのは良くないよね。
私は、心の中で約束した。
もう二度と彼女の心を読まない。彼女を裏切るようなマネはしない。
……てことは、触るの駄目って事か。
さっきのうなじの感触を思い出して、残念な気分になった。まるでひなたぼっこしている猫のような優しい手触り。別にいやらしい気持ちじゃないし、変なつもりがあるわけじゃない。普通の友達同士なら、ちょっとのスキンシップくらい許されるはずなのに……
なんで、私はこんな邪魔な能力を持ってるんだろう。
こんなんだったら、バニラの匂いのあくびをする能力のほうがよっぽどマシだ。
落ち込んでいたら、夜、メールが来た。
相変わらず、絵文字が満載だ。
「今日はありがとぉ(笑顔)! おかげで寝坊(ZZZ)せずにすんだよ。ジャスミン(仮名)さんは、ホント頼れるアネゴって感じです(ハート)。これから私のことは、サクラ(花びら)って呼んでください」
サクラ、か。たしか彼女の下の名前がそうだったっけ。
女子力カンストの彼女に、ピンクの可愛らしい花はイメージぴったりだ。この際だから、彼女の仮名も「巨乳ちゃん」から「サクラ」に変更しよう。友達になった以上、いつまでも「巨乳ちゃん」なんて失礼だし。
さっそく返事を送った。
でも、なんとなく照れて素っ気ない文章になる。
「アネゴって、私より年上でしょ」
ちょっと素っ気なさ過ぎか? 気を悪くしないかな?
心配する間もなく、速攻で返事が来た。
「あーん。私のこと、おばちゃんあつかいするんですか? 早生まれだから、まだ二十二歳なのに。ひどーい」
たしかにサクラは二十二歳には見えない。年上とは思えなかった。
「わかったわよ。呼ぶわよ、サクラね」
「じゃあじゃあ、私はジャスミン(仮名)さんのこと、なんて呼べばいいですか?」
「いいわよ。ジャスミン(仮名)で」
「そんなー、なにかないんですか、あだ名とかニックネームとか」
ええと、ずいぶん紛らわしくなってしまったけど、これまでの会話に出てきた「ジャスミン(仮名)」は仮名で、つまり実際には鈴木とか佐藤とかっていう私の本名が使われているわけだ。
そして、私がこれまでの人生でつけられたあだ名は一つしかない。
「ジャスミン」
送信してから、しまったと思った。
自分から名乗るあだ名にしては恥ずかしすぎる。大学も四年になって中二病? 恥ずかしいったらありゃしない。
「??」
さっきまで、あんなに長文だったサクラのメールがクエスチョンマーク二つで返ってきた。
あわてて訂正する。
「いや、やっぱりない。あだ名なんてついてたことない」
またすぐに返事が来た。
「なんか、文字が化けるみたいでよく読めないんですけど、もう一度送ってください」
恥ずかしい気持ちを押し殺してメールを返す。
「ジャスミン」
すると、返ってきた返事はこうだった。
「?? やぱり、文字化けみたいです。もう一度送ってください」
とうとうキレて、私は電話を掛けた。
「サクラ! あんた、わざとやってるでしょう!」
「うそうそ、ジャスミンかぁ、うん、ジャスミン(仮名)さんにぴったりですよ」
ホントに紛らわしいけど、最初のジャスミンがあだ名で、次のジャスミン(仮名)さんが本名だ。
その後も、私たち他愛ないことを電話で話し合った。彼氏がいるとかいないとか(正確には、「いないとかいないとか」だったけど)、どんな男がタイプか、とかだ。
二人の趣味は全然違うのに、私たちはびっくりするくらい話が合った。
そうしてその夜、私は久しぶりにゆっくりと眠りについたのだった。