エピローグ・後編
茶室での、利休との密談から間もなくのことであった。秀吉やその周辺で、いささか眉唾な話が広まった。
「実を申せば、我が殿におわしましては天子様のご落胤とのことだ」
「お母上であるお大の方様は、天子様のお側についていたのじゃがお手がついた後暇を出されたとのことじゃ」
「であれば、百姓の出などというのは世を忍ぶ仮の姿じゃったということじゃ」
噂は次第に京を駆け巡り、なるほど秀吉というのはそれほど尊い血筋の出であったかと、本気で信じる者まで出始めた。秀吉のいけしゃあしゃあとした物言いが、話を更に大きくした。
「実はのう、わしのお母上はこの身を産む時日輪が腹中に飛び込む夢を見たそうな。ゆえに、わしの幼名は日吉丸と名づけられた次第じゃ」
秀吉のお伽衆であった大村由己は「秀吉事記」に、
「秀吉の母は荻中納言の女で、禁中に宮仕えしているうちに懐妊したのが彼である」
と記した。ただし、秀吉の誇張した話をなんの疑問もはさまずに書いたものでしかない。言うなればこれは、秀吉サイドが仕掛けた大掛かりな作り話といえた。
秀吉にも言い分はあった。たしかに彼は、己の実力によってのみ天下人への道を昇り詰めようとしていた。が、世の中が泰平へと向かう道程において血筋の良さというものが、世の人々にとって重要となった。人の世の不可思議さがここにある。世が乱れぬいていた時は、何の役にも立たぬ否定された家柄の高さ、血筋の良さこそが為政者の条件とばかりに、この期に及んでささやかれ始めたのだ。裏を返せば、戦国の世が終わりを告げようとしている一つの合図だったのかもしれない。
考えようによっては、世の人々も進んで騙されたかったのではないか。秀吉の貴族化によって、泰平の世というものをはっきりとした形で感じ取りたかったのかもしれない。
翌天正十三(一五八五)年、右大臣菊亭晴季の後押しもあり秀吉は近衛前久の猶子となった。その年のうちに関白に任官すると朝廷に申請し翌年豊臣の姓を賜った。ちなみにいえば、豊臣とは秀吉のためにわざわざ作られた別姓であった。朝廷までもが、秀吉の大嘘に加担したわけである。
義昭は、このさまをどんな思いで眺めたことであろう。だが、彼がどれだけ悔しがろうとも世の流れは変わりつつあった。世は、名ばかりの室町将軍ではなく実力のある為政者を、豊臣秀吉をこそ必要としていたのである。
新しい天下人が誕生した後、天正十六年一月十三日ようやく義昭は京へと帰り着いた。先年に九州が征伐され、いよいよ秀吉の治世が盤石になったと見切りをつけたのだろうか。出家し、名を昌山と変えた。九年後の慶長元(一五九七)年、腫れ物を患い亡くなった。享年六十一。
その臨終に際し、長岡幽斎が見舞いに訪れたという。かつての家臣、細川藤孝であった。何を語ったのだろう。
信長大包囲網
完
次回、あとがきを配信します。