第八十話 最後の説得(六)
本当はもっと早く知らせるべきだったかもしれない。確かに昔と違い、光秀は軽率に動けぬ立場だ。キンカン頭、ハゲ鼠などと揶揄こそされるが、信長が彼を重用しているのは間違いない。その点、天下を分けた戦で対峙する木下藤吉郎秀吉(後の豊臣秀吉)などこの時点では光秀になど及ぶべくもない。
己が動けぬならば、片腕と頼む斎藤利三あたりに全てを託すこともできたろう。だが、光秀は今日に至るまで何一つ手を打たなかった。あの御方は、容易に人の言う事を聞こうとはしない。そんな言い訳も心中繰り返していた。告白をすれば、もはや爆弾となりつつある義昭と、接触を持つことを避けていたためである。
(わしも、自分が可愛かった。ただ、それだけのこと……)
ひそかに手を打っていたならと、今更繰り言を口にした所でどうにもならぬ。最後の幕引きだけは手伝ってやらねばならぬ。そう思い立ち、家臣に後事を任せて単身この槙島城へと赴いた。
「そう、あれは今から三ヶ月ほど前、四月十三日の夕刻のことにございます」
その前日まで数日の間、信濃・駒場に逗留していた武田軍はようやく甲斐へ向けて動き出した。上洛をあきらめ意気消沈をしていたはずの軍勢であったが、その日の朝は全軍から浮かれたような雄叫びが幾度となく繰り返された。慎重居士である信玄の性格から考えれば、上洛よりも徳川家康の前線拠点がある遠江あたりを確保しておけば上出来としよう。なにより、甲斐へ戻ろうとしている武田軍には信玄が壮健なさまで駕籠に担がれていった。
「あの入道殿は結局、天下のことより己の領土を拡げることのほうが大事じゃったということであろう。余計な心配をしたものだ」
一人がそうつぶやいたのを合図に、この軍勢を見張っていた者たちは一人、また一人と報告をせねばと西への道を急いだ。だが……。
「左様、間違いないのだな、半兵衛よ……」
信長は、平伏している藤吉郎とその隣で平然と見返している男に向かって尋ねた。嘘、偽りであればただではおかぬぞ。そんな含みさえこめての問いかけであった。
「間違いございませぬ。この半兵衛、我が主秀吉様の御命令を受け配下の一人にこの事確認させました」
竹中半兵衛重治。かつて美濃斎藤氏の家臣で、藤吉郎に乞われて軍師となったこの男は、まるで猛獣を事もなげに手なずけるように先を続けた。
一人だけこの流れに逆らった者がいた。歳の頃は二十歳前後の若い乱波である。無論、彼らの中では経験も少なく、頭から叱責されることもある。が、経験者ゆえの見切りの早さと無縁だったことが、この男には幸いした。頭の命令で一度は退きかけたものの、己の内に湧き上がってきた違和感からついに逃れることができなかった。
何かある。引き返した若い乱波は、ただ一人様子を見始めた。