第七話 大仏焼失
亡き義輝の従弟、義栄が将軍になるには時間を要した。他国へ逃れた覚慶こと、義秋が自分こそ将軍になるべき人物だと宣言したためもある。いずれにしろ、彼を押し立てていった松永久秀は邪魔者を始末しなかった。始末しようにも、身動きが取れなかったためだ。
前将軍弑逆の共犯者である三好三人衆が、はっきりと牙を向いてきたからだ。そもそも彼らにしてみれば気に食わないことだらけだ。主殺しという天下の大罪を行うように仕組んでおきながら、自分は居城でのんびり茶など飲みくさってる。
それだけでも腹立だしいのに、いつの間にか対等それどころか主面して命令をしてくる。本来の主家は三好一族のほうだ。それを一体何を偉そうに。
一番頭にきたのは、将軍選びだった。義栄を押すのはまだいい。だが、何故久秀如きがしゃしゃり出る。日を追うごとに両者の溝は深まり、ついには断交にまで至る。
そして三人衆は、久秀を出し抜き義栄を十四代将軍に据えると久秀追討の宣下を出させ、大和にある久秀の居城を次々と落としていった。さすがの久秀も打つ手がなく、それから数ヶ月の間行方をくらますまで追い込まれた。勝負はついたかに見えた。
ところが事態が一変した。三好義継が久秀に寝返ったのだ。三人衆は義栄を将軍にしたことで、これで幕政を牛耳れると得意の絶頂にあった。しかし、肝心の主である義継をなおざりにした。
義継もある意味、単なる神輿であることに変わりない。とはいえ、神輿には神輿の感情というものがある。三好家の当主を無視して、自分たちだけで幕政に介入しようとは許し難いことだ。ならばと、久秀に走ったのだ。
後年、同じように信長に仕えた義継と久秀だが、やはり主従ともに信長を裏切った際敵わぬと見るや久秀は自分の居城の一つと義継の命を担保に降伏をする。
義継が久秀のあくどい性格を知り尽くしていたなら、三人衆を見限ってこの食えない老人に味方することはなかっただろう。いずれにせよ、主を掌中に入れたことで久秀は息を吹き返した。
こうなってしまえば久秀のほうも遠慮がない。再び大和を舞台として、戦雲はいよいよきな臭くなる。一方、三好三人衆は東大寺において陣を構えた。思い切ったことをした、といえる。
いくら久秀が悪逆非道の男であっても、寺領仏閣まで攻撃はできまい。逆に言えばそれは、三人衆がいかに久秀を恐れていたか明らかにしたといっていい。
とはいえ、どうしようもあるまい。仏罰を恐れる家来や身内たちは、分が悪いと言わんばかりに久秀を顧みた。この時口にされた一言で、久秀の悪名は歴史上不動のものとなった。
「かまわぬ。東大寺に火を放て」
誰もが腰を抜かした。まさか、これほどまでに恐ろしき人であったかと。松永軍は、東大寺を急襲した。驚いたのは三人衆だ。久秀め、気が触れたのか!?
そう思わずにいられないほど、この攻撃は意外であり信じ難かった。折しも強風にあおられ、火災は大仏殿にまで及び、大仏の首は焼け落ちてしまった。
三人衆は命からがら逃げ落ちた。時に永禄十(1567)年十月十日、この日を境に中央の政権は久秀によって掌握されていった。
一時は久秀に取って代わった三好三人衆は、以後ついに浮かび上がることはなかった。そして後に上洛した信長によって、完全に息の根を止められてしまう。
一方三好三人衆に担がれた十四代将軍義栄は、久秀が実権を握ったことで京へ入ることができないありさまとなった。
だが、この頃から時代は確実に久秀たちの思惑を超えた方向へと動き始めていった。同じ頃、義秋は越前の地で彼の生涯を左右する人物と巡り会っていた。
松永久秀の勇名な天下の大罪の一つである、奈良の東大寺の大仏焼失のエピソードでした。しかし、実際には松永軍は東大寺に放火をしてはいないというのが最近の通説です。本当は敗走した三好三人衆軍が、誤って失火してしまったというのが真相のようです。
実際、久秀に対して辛口な評価が多いルイス・フロイスさえその著書『日本史』において三好三人衆の中のキリシタンが放火したと記しています。
では、何故久秀の仕業にされたのでしょう。たぶん、これは信長の言動が大きいと思います。家康に久秀を紹介した際、
「この老人は、誰もができない天下の大罪を三つも行った者だ」
と言った一言が、世間に独り歩きしたのではないでしょうか。久秀が行った天下の大罪とは、
一、将軍足利義輝を弑逆したこと。
二、東大寺の大仏を焼失させたこと。
三、主家である三好家を滅亡させたこと。
の三点です。このうちの一と三は、久秀もさすがに否定しようがなかったでしょう。しかし、大仏に関してはいや、違うと言いたかったかもしれません。信長にしてみれば、天下の大罪が一つ増えようがかまわぬといったところかもしれません。
久秀は二度信長を裏切った末、天正五(1577)年十月十日に信貴山城で爆死しますがちょうど大仏殿焼失から十年経った同じ日であったため、当時の人たちは、
「これこそ、大仏の仏罰が当たったのだ」
と噂したらしいです。一度貼られたレッテルというのは、なかなか剥がれ落ちないという一つの例といえます。