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第七十三話 いくつかの謎:後編

 最後に、信玄の遺言である。御宿監物の書状や「甲陽軍鑑」においては、信玄が死に臨んで自分の死後は三年はこれを隠すように命じたとある。先述の新田次郎などは、



 「信玄ともあろう人が、そんな事を言うはずがない」




 と、ある対談で真っ向から否定している。もちろん、信玄びいきの作家の見解であるためこれが史実だと断定はできない。が、信玄本人の遺言でないと考えれば納得のいくことがある。信玄没後の、勝頼の暴走である。


 父・信玄とはまったく正反対の、ひたすらに前に前にという積極的な戦法で勝頼は織田や徳川をおびやかし、一時は信玄在世の頃よりも領土を拡げたくらいだった。が、間もなく勝頼のやり方には破綻が見えてきた。勝頼与し易し。攻め一辺倒の若き武田家当主のパターンをある程度把握した信長は、三河設楽原みかわしたらがはらにおいて家康と手を組んで一気に武田軍を叩く戦に臨んだ。世に言う、長篠の合戦である。


 三千ともいわれた織田・徳川軍の鉄砲隊にまともにぶつかっては危険である。山県昌景や馬場信春たちのそんな忠告も退けて、勝頼は堂々と正面からこれと対決する策を選んだ。


結果は、武田の記録的な惨敗に終わった。鉄砲隊の威力も確かにあった。が、実際には勝頼を見限った昌景たちが当てつけのように無謀ともいえる正面攻撃で死んでいったのが史実に近いようだ。壮大なる集団自殺といったところだろう。以後武田家は没落し、滅亡への道をひた走ることになる。


 何故、勝頼と重臣たちの関係はここまでこじれてしまったのか?武田家を滅ぼしてしまったこともあり、勝頼は長い間父・信玄とは比べ物にならない凡将とさえ酷評された。この武将に不運があったとすれば、正室の子ではなかったということか。


彼の生母は、諏訪頼重の娘であり信玄が真っ先に攻め滅ぼした諏訪の出身だった。そのため勝頼は将来的には諏訪の地を治めさせるというのが、武田家における暗黙の了解となっていた。信玄自身も、孫の信勝を次期当主に据えるという約束を家臣団にしなければならぬくらいだった。


自分は不当に扱われている。勝頼は武田家における、己の微妙な立場に憤懣やるかたなかっただろう。決定的になったのは、父・信玄の死ではなかったのか。


 以下は仮説である。ひょっとしたら勝頼は、父の臨終の場に立ち会っていなかったのではないか。家臣団によって、巧妙にその場からはずされたことも考えられる。そうでなければ、いくら不平不満を持っているからといって信玄の死後間もなく自分専用のブレーンを据えて父の代からの重臣たちを爪弾つまはじきにはしないはずである。


信玄の遺言が実は捏造であり(特に山県昌景あたりが怪しい)、勝頼が臨終の場に同席してなかったと仮定すれば、その後の彼の無謀ともいえる行動に合点がいく。無論、確かな証拠はないのだが。一つだけはっきりしていることがある。いずれにせよ、ここまで武田家がひた隠しにしてきた信玄の死が思いの外早く露見したということだ。

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