第七十話 我、去りゆく時:前編
京はまだか、京へ向かって早く進まぬか。病床で信玄はうわごとのように繰り返した。山県昌景が入ってくると、つきっきりで病人を診ていた典医が冴えない顔で平伏した。ゆっくりと進み出、その顔を覗き込んだ時昌景は思わず胸が詰まった。
恰幅がよくふっくらとした面相が、頬がこけ眼が落ちくぼんでいた。昌景かと、重臣の姿を認めると嬉しげに信玄は言葉を継いだ。一語、一語が途切れがちで、話すだけでもつらそうだった。
「京へ…急…げ……。わしの身体は…大…事な…い。よいか、戦という…もの……には…勢いがあ…る。この機をのが……のが……逃しては……」
「お屋形様っ!」
「ご免っ!」
典医は割り込むようにして、信玄を抑えつけた。脈を取ったり、布団越しに身体をさすったりしながらあまりおしゃべりになっては困りますと釘をさした。ぜいぜいと息を乱している主人に、昌景はやはり上洛はあきらめねばならぬと思いを新たにした。急がねばもはや病人の命の保証はできませぬ。帰り際に典医に囁かれた一言が、昌景の中で止むことがなく反芻されていった。
翌日、武田軍は帰郷の途に着いた。信玄の病状の重さを考えれば一刻も早くという反面、これ以上悪化させてはならんとゆっくりと進軍していった。尾張や美濃ではなく、信濃へ向けて歩を進めていく我が軍を、織田や徳川はどのような気持ちで眺めているだろう。あるいは、信玄の病の重さを悟られるやもしれぬ。
(三年だ……。もしもお屋形様がお亡くなりあそばしたら、三年はその死を隠さねばならぬ……)
四郎勝頼は正確には信玄の後継者ではない。勝頼は、諏訪御料人あるいは諏訪の方と呼ばれた諏訪頼重の娘との間に生まれた。意見の食い違いで嫡男義信を死なせた後、信玄はこの四男を後継者にと熱望したが家臣団の反対に遭い挫折した。
勝頼殿はあくまでも、かつて攻め滅ぼした諏訪頼重の後継ぎとして諏訪の地を治めさせるのが常道。それが反対の理由だった。武田の男子には必ずつける”信”の一字ではなく、頼重の一字を取って勝頼としたのもその意向があってのことだ。そのため、武田の次代の当主は勝頼の息子信勝にと決められていった。
だが、その信勝は弱冠七才の子供に過ぎない。となれば、勝頼が事実上の当主として武田を率いることになろう。それが現実だ。
(無理だ。四郎殿では、お屋形様のようにはいくまい。本人とてそのようにするつもりはあるまい。三年だ。少なくとも三年は、あの方にはおとなしく甲斐や信濃の地を治めていってもらいたい。民心が四郎殿に服するまで、武田の力を充分に蓄えたうえでなければ戦などやらせてはならぬ)
それでなくとも勝頼は、武田家中では腫れ物を触るように扱われている。彼の者の暴走だけは、なんとしても防がなければ。