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第六十九話 そして、撤退

 地を這うような山県昌景の重々しい一言と共に、皆が立ち上がりかけた時だった。待たぬか、と、鋭く押し留めた者があった。武田四郎勝頼である。不用意なくらい両のまなこから気迫を漲らせていたこの男のさまに、昌景は努めて静かに応じた。



 「なんですかな」

 「山県よ、父上…いや、お屋形様は京へお上りになるために今度の戦を始めたはずではないか。それを、今になって取りやめるとはお屋方様の…その…ご意思にそむくことにはならぬのか」

 「四郎様のおっしゃること、誠にもってごもっともではございますが、今はもはや事態が変わりました。この上は、一日でも早く甲斐へ戻り今後のことを考えるのが肝要かと」 

 「では、上洛を諦めると申すのか。天下を取らぬと申すのかっ!」



 勝頼は納得できなかった。確かに状況が、思わしくない方向に進みつつあるのは事実だ。だが、考えようによってはこの事態は甲斐を出る時点であるいはと予測はできたはずだ。父上とて覚悟はできているはずである。少なくとも、昨日の口ぶりではそれは充分窺い知れた。


何より勢いは武田に味方している。このまま一気に岐阜城にいる信長さえ打ち破れば、京は目前だ。武田は天下を取れるのだ。常々思っていたことを、ここが言うべき時機とばかりにまくし立てた。



 「確かに、今まで天は武田に味方してはくれました。ですが、潮時が確実に来ている。今この時期を逸すると、逆に我らが苦しくなります」

 「何を言うておるっ!今こそが絶好の好機なのじゃ。犠牲を恐れて、なんで戦に勝てようか。お屋方様とてそう望んでおるはずだ!明日といわず、今宵にでも出発して信長を倒して……」

 「やめぬかっ!」



 やむことのない昌景と勝頼の押し問答に一喝したのは馬場信春だった。再来年には還暦を迎えようというこの老臣は、目を赤くはらしながら二人を睨みつけた。



 「昌景よ、言いたいことは持って回ったようにではなくはっきり言うべきじゃ!そのような時こそ惜しいくらいじゃ!勝頼様、わしの意見を言わせてもらいましょう。

わしは、明日といわず今宵にでもお屋形様を甲斐へお連れ戻したいくらいじゃ!我が武田は確かに強い。じゃが、武田はお屋形様が…信玄公がおられてこそじゃ。死なせとうはない。わしはお屋形様をこの地で死なせとうはないっ!」



 信玄の初陣以来、四十年近く共に戦った老臣の悲痛な叫びであった。馬場殿と押し留めかけた昌景であったが、こらえようとするように唇を噛み締めながら天井を見上げた。


信春の勢いに感化されたように、何人かの重臣も声を押し殺すようにすすり泣きを始めた。悔しさ、つらさ、悲しさ、決して割り切れぬ思いを抱えながらの軍議は、それから四半刻後にようやく終わった。翌日、武田軍は長篠城を出発した。己が故郷へと引き返すために。

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