第六話 逃亡、逃亡、また逃亡
本文では、松永久秀が十四代将軍を決めたように書いてありますが、実際には三好三人衆によって義栄は十四代将軍になっています。それどころか、将軍義栄の宣下によって久秀は三人衆から追討される立場になり、数ヶ月行方をくらますという事態にまで追い込まれます。そんな大事な事実関係を見落とすなんて、物書き失格ですねえ(汗)
将軍義輝をまんまと葬り去った久秀は、その従弟義栄を後釜に据えた。義栄は前から将軍になりたくてたまらず、傀儡であろうが構わなかった。
自分の意のままに動く人物であれば望ましい久秀にしてみれば、まさに渡りに船だった。かくして翌永禄九(1566)年二月に、十四代将軍は誕生した。
もっともその間、いくつかのいざこざはあった。一つは三好三人衆との決定的な対立で、これについては後でまた詳しく述べる。
もう一つは、残された義輝の二人の弟たちについてだ。二人とも、既に出家していた。いずれは寺院の院主として、俗世間とは無縁の一生を終える、はずだった。
まずは末弟の周暠、弱冠十七歳の彼は殺された。続いて、義輝とは一つ違いの覚慶は幽閉された。何故一方は命を奪われ、もう一方は生かされたのか?ここには、久秀のしたたかな計算が働いていた気がする。
少なくともこの時点では、次の将軍を誰にするかということは決まっていなかった。久秀と三好三人衆が互いに縁を切ることになったのも、その点の主導権争いからきている。
久秀にしてみれば、操り人形は誰でもよかった。その前に、相手にはっきりと教えておく必要があった。誰が本当の主人であるかを。周暠は、久秀のそんな冷酷な思惑で殺されたといっていい。
覚慶は震え上がった。そこまでは久秀の読み通りだった。同時に覚慶は思った。自分が生き永らえるには、久秀の顔色を窺い続けるしかない。
だが、それもこちらにまだ利用価値がある時までだ。必要がなくなったら殺される。兄や弟の二の舞になどなりたくない。兄の近臣であった細川藤孝らの協力を得ると、覚慶はただちに幽閉先の奈良を脱出した。
奈良から伊賀を経て、ひとまず覚慶は近江甲賀郡の地侍和田伊賀守惟政の城に転がり込んだ。後に、信長に宣教師ルイス・フロイスを紹介した惟政は、覚慶を快く迎え入れた。
さて、無論身の安全を図るためだけに逃げのびた覚慶ではない。兄が死んだ今、自分こそが新しい将軍になるべき存在だという自負があった。それは彼の独りよがりではなく、幕臣の中にも義栄ではなく覚慶をという声は事実あった。
同時に彼には、兄にも優るとも劣らぬ将軍としての想いが渦巻いている。力の強い部下の操り人形ではない、真の実力を持った将軍になりたいという自負が。
翌年二月、覚慶は還俗し名を義秋と改める。数年後、室町幕府最後の将軍となる足利義昭の前身であった。かくして足利の当主たらんということを宣言した義秋は、近江矢島、若狭(現在の福井県南西部)、やがて越前(現在の福井県東部)の朝倉義景の元へ身を寄せる。
高々とは名乗ったものの、今の義秋にはすぐに上洛して将軍になれるだけの力などなかった。彼には、その後ろ盾となってくれる大名がどうしても必要だった。義秋の流浪と忍従の日々はもうしばらく続く。