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第六十三話 大勝負:後編

 門前はもちろんのこと、中にも人っ子一人いない様子であります。物見の兵からの報告に、武田方は更に戸惑い揺れてそして分かれた。



 「家康め、もはや我らに勝てぬと観念したのでありましょう。かまわぬ、このまま一気に城をいただくとしよう」

 「いや、お待ちください。相手はあの家康。何か策があるのではありますまいか」



 勢いに任せようとする武田勝頼と自重を促す山県昌景。一方は信玄の後継者としての立場からくる強引さがあり、片や信玄の重臣として最も信頼されているという誇りが見え隠れしていた。この二人が三年後、長篠の合戦で対立したことが武田の没落を決定づけるのだが、それはもう少し先の話。


 それぞれの意見が膠着したのを見計らったように、馬場信春がではお屋形様にお伺いをたててはどうかと口をはさんだ。待ってましたといわんばかりに、全員の視線が信玄の乗る駕籠へと注がれた。降ろせと、中からの命令で静かに地に着けられると馬場信春が早速脇へと立て膝で控えた。



 「信春よ、”空城の計”というのを知っておるか」

 「空…城の計でございますか……」



 聞いたことがあるようなないような言葉に、信春は首をかしげたがすぐにご教授いただければと頭を下げた。駕籠の中から信玄は、くぐもった響きで信春だけというより周りの者たちにも聞こえるようにと話し出した。


 中国三国時代の名軍師・諸葛孔明が用いたとされるのが空城の計である。まだ孔明が生涯の主人劉備玄徳に仕えて間もない頃、彼らを滅ぼそうと長年の宿敵曹操孟徳がその居城目がけて十数万の大軍を擁して襲いかかってきた。曹操はこの時既に、後漢王朝の後見人という立場を悪用して中国全土を征服しかねない勢いだった。


一方劉備のほうは、曹操に歯向かいながらもその実力はライバルの十分の一にも満たぬという弱小武将の一人でしかない。このままいけば、座して滅ぼされるのを待つしかない。劉備は他国へ逃れて再起を図ることにした。とはいえ、このままむざむざと城を明け渡したのでは劉備の面目が立たない。そこで孔明は、策を用いることにした。


 数日後、全門を開け放った城を曹操の先発隊が占領した。なんの労もなく手に入れた城ということもあり、兵士たちは驕り高ぶりついには酒宴まで開いた。その夜、見計らったように息を潜めていた劉備側の伏兵が一斉に門を閉じ城内に火を投じた。曹操軍はたまらない。寝込みを襲われたうえに、逃げ場所さえも失い先発隊の大半が無惨にも焼き殺された。これがいわゆる空城の計である。

 

 もっともこのエピソードは、『三国志演義』におけるフィクションの一つである。この物語自体、漢王朝の末裔とされる劉備玄徳の存在を正当化させ、彼を支えた諸葛孔明を神格化させる設定で書かれた。果たして信玄が生きていた時代に、その真相が伝わっていたかはいささか怪しくはある。とはいえ、だ。



 「なるほど。では、家康めも……」

 「無論、あの若造にそこまでの読みがあるかはわからぬ。わからぬが……」



 この戦、勝ち過ぎたという思いが信玄にはある。長年の経験で、勢いに乗じて勝ちを欲張ると手痛いしっぺ返しを食らうことを彼は充分過ぎるほど知り尽くしている。加えて討ち取った徳川勢のこともあった。何者であるかはわからぬが、そのうちの何人かは家康の名を騙って命を落とした。家臣が主人の身代わりになることは珍しくはないが、徳川勢に限ってはその数が多い。このことは、主従の結びつきの強さを無言で証明している。だからこそ、思わざるを得ないのだ。家康が、むざむざとこのまま降伏するのだろうかと。


空城の計はともかく、徳川勢が一か八かの反撃を狙っていることは充分考えられる。無論、今の武田の勢いをもってすれば攻め落とせぬこともない。だが……。



 「この戦はもう終わった。改めて首実検をするので、勝ち名乗りを挙げるとしよう」

 「御意っ!」



 いつまでも家康にかまってはおれぬ。そんな思いが命令となった。武田勢は浜松城を目前に、二度、三度とこれみよがしに勝鬨の声を上げた。間もなくゆっくりと退却していく大軍に、城内の者たちは腰が抜けるほどに安堵した。



 「訳がわからぬが、武田が退いてくれた……」

 「よ、ようござりましたなあ、殿……」



 振り返った家臣たちは唖然とした。そこには既に主人家康が高いびきで眠りこけていた。よくもまあこのような状況でと呆れたが、それはすぐに尊敬の念へと変わった。恐らく殿はこうなる事を見通した上で、開門のうえ篝火を焚かせたのであろう。まったくもって我らとは器の大きさが違う。一人が代弁するように語ると、誰もがさもあらんと大きく頷いた。


 家康の真意が本当にこの状況を読んだうえのものであるか、眠りこけた男からは探りようがない。ただ、この合戦を契機に徳川主従の結束が更に強まり、後年彼を天下人へと押し上げる原動力となったのは確かである。結果として、老獪な信玄が青二才家康にたぶらかされた形で戦はひとまず幕を閉じた。

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