第六十二話 大勝負:前編
家康にとって幸運だったのは、浜松城においては逃げ帰る者たちの目印にと煌々と篝火を焚いていたことだった。平手汎秀らはこの灯の光を目前にしながら憤死したが、家康はその後も迫りつつあった武田勢をなんとか振り切り城門を潜り抜けた。待ち侘びた総大将の帰還に、城内は一気に活気づいた。後を追った郎党たちも遅れて続々と入城し、家康は何人かの手を借りてどうにか馬から降りた。
「うわっ、臭いっ!殿、糞をもらしましたなっ!」
そのうちの一人が鞍を顧みて思わず鼻をつまんだ。恥ずかしいことではあるが、家康は逃げる途中恐怖のあまり脱糞してしまっていたのである。この事実だけを取っても、彼の恐怖の大きさが窺い知れる。家臣のほうも、主人が帰ってきた安心感も手伝って叫んでしまったのだろう。とはいえ、指摘されたほうはたまらない。
「たわけっ!よう見よっ、それは戦場で食べるためにと持ち運んでいた焼き味噌じゃっ!舐めてみいっ!」
掴みかからんばかりの勢いに周りの者たちがまあまあとなだめ、結局叫んだ家臣が焼き味噌がこびりついたという鞍を洗わされる羽目となった。
大広間へと運ばれた家康は、湯漬けを持ってこいと命じた。助かったことでようやく空腹を覚え始めたのである。殿、これからいかがなさいましょう。家臣たちの顔は一様に冴えなかった。完膚無きまでに叩かれた今、武田勢がその余勢でもって浜松城を攻め落とすことは充分に考えられた。もはや彼らの選択は限られていた。
闇夜に紛れて主従共々岡崎へと逃げ帰るか、城を枕に全員討ち死にするか、城を明け渡して降伏するか。逃げるのはいささか無理があるかもしれない。地理はこちらのほうがまだ有利とはいえ、武田の残党狩りにひっかからぬ保証はどこにもない。
降伏するとしたら、家康は腹を切らねばならぬだろう。やはり、最後の最後まで戦い抜いて三河兵の武勇の程を残して死ぬべきか。三杯目の湯漬けをかき込んでいた家康がただ一言、
「篝火をもっと焚け。それと城門は開いておくように」
主人の言葉に全員が目をむいた。いかなる所存でありますかと勢い込んで尋ねる者に、言う通りにせよと顎をしゃくると家康はまたお代りを所望した。この人は、自分の命と引き換えに降伏するのかもしれない。ふとよぎった不吉な予感に、たまらずすすり泣く者さえいた。家康は、ただ無言で漬け物を噛み締めるばかりだった。
それから四半刻(約三十分)も経った頃だろうか。ゆっくりと確実に徳川方を追い散らした武田軍が、浜松城の前へと集結していった。彼らの歩みは、城門まであと数百メートルまで迫ったところで止まった。煌々と焚かれている門前の篝火に不審を抱いたからである。一体、何を考えているのか。誰もが首をかしげるばかりだった。