第六十一話 鎮魂歌
かつて、三河一向一揆という事態が家康を苦しめたことがあった。義元亡き後の今川氏を見限り、信長と同盟を結びいよいよ三河を統一しよう。そう思った矢先の出来事だった。家康にとってつらかったのは、これによって家臣の半分以上が一揆方に加担してしまったことだ。つまり、主従が敵味方に別れて争うという状況が発生してしまったのである。
主君の家康に不満があった、というのが彼らの行動の一因ではない。”主従の縁は一代、弥陀の本願は永劫にたのむべきものなり”という宗教心のつよさが、結果として岡崎からの脱走者を多くした。元々、家康憎しという想いから離反したわけではないので、その争いは複雑かつ滑稽ですらあった。
戦場において、家康とかつての家臣の一人が出食わした時大抵悲喜劇が巻き起こった。やあ、何某わしと正々堂々と勝負するがいい。そう家康が馬を走らせると、一合も交えずに逃げるのが殆どだった。そばで見ていた一人が、手柄を挙げるチャンスとばかりに、主君に代わって追いかける。すると振り向きざまこれを斬って捨てた者が、たわけとばかりに言い放つ。
「わしは臆して逃げたのではないわ。殿であればこそ戦わなかったのじゃ!」
その家康も、家臣以外の一向宗徒に打ち負かされた時は雲か霞かとばかりに逃げまくった。一進一退の攻防がこうして約半年続いた。戦況は日を追うごとに、家康のほうへと傾いていった。一揆方へ加担した家臣たちは、この時点で既に死を覚悟していた。
後に家康の分身の如く暗躍した本多正信などは、もはや主君の元へは戻れぬとばかりに、それから十数年もの間一向宗徒として各地を放浪したくらいだ。大半の者が逃げまどうか、死罪になるつもりで投降した。
夏目次郎右衛門正吉も、一揆方に走った一人であった。他の者と同様、この男も戦況が不利になるともはや死ぬか逃げ続けるしかないとばかりに寺の蔵に籠った。哀れに思った家康は、すべてを不門にした。
次郎右衛門だけではない。一揆方となった家臣のすべてをことごとく、彼は一切罪を問わず元の知行にと戻してやった。もちろん、約束していたはずの一向宗の寺社を保護せずことごとく打ち壊してしまったという抜け目のなさだけは見せたが。
いずれにせよ、家康の寛大な処置が家臣たちをことごとく感激させたのはいうまでもない。いつか事があったなら、この主君のために命を捨てよう。次郎右衛門はひそかに決意した。三方ヶ原の合戦では、彼以外にも何人もの家臣が主君から兜や刀をもぎ取り、我こそは家康なりと名乗って討ち死にした。
結果として考えるなら、家康を後の天下人ならしめたのはこの記録的な大敗北にも関わらず命永らえたゆえであった。そしてその命を救ったのは、次郎右衛門以下多くの家臣の犠牲があってのことといえる。
家康は、彼らに感謝してもし足りないくらいといえよう。後に、次郎右衛門の不肖の息子が生活に窮すると、家康はもう一度これを家臣として召し抱えた。そして今、彼は目前まで迫った浜松城へと逃げていった。