第六十話 身代わり次郎右衛門
夏目次郎右衛門正吉、この時五十四歳。亡父松平広忠が生きていれば、これくらいの年齢にはなっていたろう。激しい剣幕の次郎右衛門に、周りの者たちは控えなされとたしなめた。家康は黙って叱られるままでいた。
言うだけ言うと、ふっとこの老臣の顔は穏やかなものとなった。やがて再び口を開いた時、息子に人生の何たるかを教え諭す父親のようにいたわるように語りかけた。
「嫡男信康様は既に元服なされてはおりますが、武田や織田殿を向こうに回して徳川を切り盛りするにはまだ心許のうございます。当主を失った家がどれだけみじめな思いをするか、殿は幼少のみぎりよりよくわかっておりましょう。広忠様が生きておれば、殿もあのようなご苦労をなさらなかったでありましょう。わかっておりますな。信康様のためにも、無駄死してはなりますまいぞ」
すすり泣きが周りから起こってきた。今川義元に体よくこき使われた旧松平家のみじめさを味わい尽くしているのは、ここにいる中では次郎右衛門のみである。それでも皆、父や祖父から死に物狂いでまだ幼かった家康を守るために戦い抜いたことを涙を交えて聞かされた。彼らにとっては、徳川の結束力を固めるために語り継がねばならぬ出来事だった。
酩酊にも似た感情を打ち破ったのは、背後からの雄叫びだった。いよいよ武田勢が迫ってきた。あまりに厳しい現実を前に、家康以下主従は再び震え上がるしかない。
「殿、僭越ながら最後に主君の何たるかをお教えしましょう」
語りかけてきた次郎右衛門の声が微かに震えていた。この老臣の顔も青ざめていることは、それだけで容易に想像できた。震えながらもなお、彼は一語、一語磨き抜かれた珠を渡すように家康へと言葉を継いだ。
「戦場で命を散らすのは我らの名誉。されど総大将はさにあらず。殿の御役目は、いかなる生き恥をさらそうが負け戦では逃げて逃げて逃げまくり無事に命永らえた末に、次の合戦へと……」
備えることじゃ!と叫ぶと同時に、次郎右衛門は馬の尻を槍で思いきり叩いた。驚き駈け出した馬にしがみつきながら、家康は林の中へと消えていった。うぬらも供をせいと老臣が一喝すると、郎党たちもあわてて後を追った。そして次郎右衛門以下、数十名の者たちが残った。
「殿、安心なされい。この次郎右衛門が、殿の身代わり勤めましょうぞ……」
つぶやいた彼の目にはうっすらと浮かぶものがあった。が、すぐに迫り来る武田勢へと向き直るとこの老臣は高らかに叫んだ。我こそは総大将徳川家康なり。思わぬ獲物との遭遇に、武田方は我こそが首を挙げんと色めき襲いかった。
それは、羽が傷つきもがき苦しむ蝶々に群がる蟻の大群のような無情さであった。数十合の小競り合いの後、徳川家康殿討ち取ったりの声が雪が舞い散る闇夜に響いた。




