第五十八話 悔し泣きの逃走:後編
忠蔵は見てしまったのだ。薄暗いためはっきりとは言い切れなかったが、明らかに主人が泣いていたさまを。一人ぼっちで逃げていた心細さ、何より己の不甲斐なさで全軍を敗走せしめたことが、歳のわりには老成しているとまで言われている家康の感情を揺さぶった。
そのさまが涙となって表れた。瞬時に悟った忠蔵は、見てはならぬものを見てしまった後ろめたさも手伝って、文句ひとつ言わず命令に従った。走る度に激痛でうめきたくなったが、歯を食い縛りながら小栗忠蔵はびっこを引き後を追う。
家康主従は、どれだけ心細かったか知れない。散らつく雪に加え、地の利は確かに彼らのほうに分がある。とはいえ、武田軍の追撃はすさまじくどこからか聞こえてくる小競り合いや騎馬隊が走り回っているらしいさまを聞く度に、いつか追いつかれる首を取られると気が気でない。
事実、家康も追いすがる甲州兵を斬り伏せて、やっとのことで一騎で逃げ延びてきたくらいだ。恐怖が、現実のものにならぬという保証はどこにもない。
一行は犀ヶ崖を目指した。そこは防衛上の拠点といっていい。浜松城の北にある東西約十二丁にも延びた長い自然の堀でここに橋がかかっていた。崖というくらいだから切り立っており、一旦落ちてしまえば攀じ登ることは不可能に近い。家康にしてみれば、逃げた後で橋さえ壊せば武田軍の追手を止められる。逆に、先にこの場所を占拠されてしまえば家康主従は死ぬしかない。
見透かしたかのように、背後からの雄叫びが次第に近づいてくる。殆どが徒歩のこの主従にとって、今の状況が心臓を常に鷲掴みにされている危機といっていい。急げ、急げと声をからしながら、家康は死に物狂いで馬を走らせる。
と、その時、前方から何者かが近づいてくる。数にして数十人はいよう。犀ケ崖の方角から来たその者たちを認めた時、家康はやられたと思った。挟み撃ちに遭った。そうとしか思えない。
考えてみれば、相手のほうが一枚も二枚も上手である。家康がそこを数少ない防衛上の拠点としたように、信玄も既に見抜いていたのだろう。彼らが最後に逃げてくるのはここだろうと読みきった上で、いくらかの伏兵を待ち伏せていたのだ。間違いあるまい。
負けた。何もかも、信玄はすべて見通していたのだ。しょせん、自分が歯向かうべき相手ではなかった。器が違い過ぎる。そう思い至った時、家康は覚悟を固めた。悲愴とさえいっていい。
「わしは、わしはここで死ぬるぞおっ!皆の者、後に続けえ~っ!」
涙を拳で拭うと、家康は叫びつつ馬上で刀を振りかざした。死が、目前まで迫っていた。