第四十八話 大長考:後編
家康、という男について考えを巡らせる。まずまずの武将であろう。幼い頃は、織田信秀(信長の父)そして今川義元の下で人質生活を送るなど決して恵まれているとはいえない前半生を過ごした。その経験が、この人物を年に似合わぬほどの慎重で手堅い武将へと育て上げた節がある。
今川義元の没後、信長と同盟を結んだことで彼は武将としての頭角を現してきた。海道一の弓取りという、義元が生前持て囃されるように言われた称号さえもいつしか襲名した形となり、まさに日の出の勢いといえた。
そんな家康を、信長はいささか軽んじている風がある。いや、正確に言えばその家臣たちが家康とその配下の者共を三河の田舎侍と陰口を叩いているようなのだ。
思えば家康の三河と信長の尾張とでは、それ以前の義元・信秀の代で戦を繰り返してきた。特に、徳川の前身である松平家は三河の豪族の一部に過ぎず、戦の状況次第で織田か今川につくという選択を常に迫られてきた。
父広忠の横死後、幼名を竹千代といった家康が義元の下で人質生活を余儀なくされた瞬間から、旧松平家の家臣たちは体よくこき使われることとなった。
いずれ竹千代が成人した暁には、故郷である岡崎の城主として戻してやろう。義元の果たされぬかわからぬ約束をエサに、三河兵は死に物狂いで尾張の最前線で戦いまくった。
織田は忠義の塊のような三河勢にこてんぱんにやられていった。思えばかつての遺恨と、自分たちの主の下風に立っているという嘲りが、家康らに対する複雑な心境を織田家は持つに至ったといっても過言でない。
徳川は徳川で、そんな織田方を算盤勘定だけは達者な輩ばかりと軽蔑している。家康や信長はともかく、少なくともその家臣たちはいがみ合っているのは確かだった。
「家康めを、是非とも我が武田家の味方に引き入れるべきです」
いつだったか、重臣の馬場美濃守信春がそう進言したことがあった。確かに僅か数百の手勢で戦を交えるなど、家康の戦いぶりには注目に値するものがある。惜しいとは思う。だが……。
(もはや遅い……)
今更家康を調略するには時間がなさ過ぎる。残念だが、今成すべき事は彼の者を完膚無きまで叩きのめすだけ。しかし、どうやって叩く?三万近い大軍を相手に、家康がのこのこと城から討って出てきてくれるとは思えぬ。
家臣や援軍に出向いた織田方がまず承知はすまい。確かに家康は用心深い。同時にまだ若い。若さゆえの血気に逸るさまを利用できないか。己の、若い頃の苦い経験も思い出しながら、信玄は夜通しひたすら考え続けた。
翌二十二日、まだ夜も明けきらぬうちに誰かあると信玄の声が寝所から響き渡った。至急軍議を開くので皆を集めよ。そう告げた信玄の表情にもはや迷いはなかった。我に勝算あり。そう言わんばかりの笑みを浮かべつつ、信玄は誰よりも早く軍議の席につきその時を待ち侘びていた。