第四十七話 大長考:前編
甲斐ほどではないにせよ、やはり今夜はどことなく冷え込む。病のせいだろうか。寝所へと運ばれた信玄は、布団をかけようとする小姓に火鉢をそばにと頼んだ。
(京を目指す身で、とんだヘマをしたものよ……)
火鉢を抱えるように暖を取りながら、信玄はあれこれと思いを巡らした。家康を存分に叩きのめした上で西へと向かいたい。当初から計算していたことであった。
彼の者に兵力を温存させた形で先を急げば、信長とで逆に挟み撃ちにあう事は目に見えている。二俣城攻略がもう少し早ければ、あるいは信長包囲網に支障がなければ浜松城を取り囲むこともできた。
一人の凡将が、その思惑を物の見事にぶち壊してくれた。越前の朝倉義景である。十二月二日、信長は岐阜城へと戻っていった。迫り来る信玄との直接対決、というより、長島の一向宗によって留守にしていた己が城が攻め取られかねない状況になっていたからだ。
この信長の行動によって、あろうことか義景までがサッサと越前へと戻ってしまったのだ。なんたる間抜けぶりか。
義景の、この身勝手としかいいようのない行動には諸説がある。いわく、信長との連戦に疲れ果て一日も早く故郷へと帰りたかったため。また、隣国加賀や越中の一向宗の軍事行動が(上杉謙信への牽制のため)自分の国にも飛び火しそうで気が気でなかった等。
義景が、ここ数年信長との戦に明け暮れていたこと、一向宗の軍事行動に神経質になっていたこと、どれも事実に間違いない。気持ちはわかるが、彼の帰国は致命的といってもいいポカではある。
信長包囲網というのは、それぞれの武将や勢力者の息の合った連携プレーがあってこそ初めて効を奏する。そもそも武田家を除けば、単独で信長に対抗しうる勢力がどれだけいるというのか。
石山本願寺はまだいい。頂点に立つ本願寺顕如の号令の下、各地の一向宗徒がそれこそ最後の一人になるまで抵抗しよう。だが、浅井・朝倉はどうか。彼らはしょせんちっぽけな義理・人情だけでつながった世間知らずに過ぎない。放っておいたら数年を経ずして滅ぼされよう。
松永久秀などはいつ裏切るか知れぬし、三好の残党や六角承禎に至ってはいてもいなくても変わらぬくらい役には立たない。それでも団結していれば、信長に対して充分な脅威となり得た。それを義景一人によって台無しにされかかっている。
(わしがすべての計画を立てておれば……)
あるいはこのような体たらくぶりは防げたであろう。少なくとも義兄弟である顕如との関係は密接で、そのおかげで越中や長島の一向宗徒を扇動し謙信や信長をきりきり舞いさせた。
しょせん、己の権威を盲信した将軍義昭の計画の甘さがはっきりとした形で出てしまったということだ。さりとて愚痴ってばかりもおられぬ。なんとかして、傾いてしまった流れを自分たちのほうへ押し戻さなければ。信玄の思案は更に続く。