第四十六話 思い悩みし者たち
二俣城落城。この報告は、浜松城内にあった慎重論を決定づけた。
「これで決まりましたな。我らが役目は籠城と相なった」
それ見たことかと言わんばかりに、佐久間信盛はフフンと鼻を鳴らして退座した。小憎らしいさまに、向かい合っていた家康の顔が一瞬変わりかけた。
が、すぐに無言でうつむき右手の親指を口に持っていくと、クチャクチャと爪を噛み始めた。苛ついた時にやる、家康の昔からの癖であった。こうでもせねば、今の彼は煮えくり返るような思いを抑えられぬのである。
主君の悔しさを充分承知しているのだろう。相手がいなくなってから、無責任にけしからん奴だと騒ぎ立てる輩が多いなか、石川数正は精一杯の微笑みを浮かべて家康のそばに近づいた。
「殿、無念でありましょうがここはこらえてくださいませ。いずれは、捲土重来を期する時も来るでしょうから」
「わかっておる」
理屈では重臣の意見がもっともだと思いつつも、憤懣やるかたない家康であった。負けてもいい、武田信玄めに武門の意地を、徳川勢の勇ましさを見せつけてやれないものか。狂おしいばかりの願いは、腸を焦がしてでも呑み込まなければならない。代わりにとばかりに、噛みちぎった爪をベッと吐き捨てた。
同じ頃、武田勢のほうでも軍議が開かれていた。明日はいよいよ浜松城下に進軍するため、慎重にも慎重を期する議論が重臣たちの間で交わされた。
「この勢いに乗って一気に浜松城を攻めれば、家康の首はもう取ったも同然!」
「いや、家康はなかなか戦の駆け引きがうまい武将と聞きます。城攻めは見合わせ、まずは西へ進むことを優先してはいかがかと」
信玄の四男で、信玄自身も世継ぎにと熱望している勝頼は若さもあって言うことが勇ましい。対する山県昌景は長年培ってきた経験の深さから、最低限の軍勢で浜松城を取り囲みその間に本隊は西を目指すべきだと主張した。織田信長という強敵との直接対決を考えれば、ここでの兵力や時間の浪費は取り返しのつかぬ失敗となろう。
主戦論、慎重論の異見が出尽くすと、彼らの視線は一斉に信玄へと注がれた。家臣たちに充分議論をさせた上で決断を下す。いつもと変わらぬ武田家の軍議であった。はずだった。
「今日は疲れた。この続きは、また明日にでも。皆も今夜はゆっくりと休むがよい」
病のせいだろうか。青白い顔で一語、一語区切るように話すと、信玄は小姓の肩を借りて退座した。その弱々しいさまに、ご不憫にと主君のさまに涙を流す者もいるなか山県昌景だけは考え込んでいた。
(お屋形様は迷っておられる……)
そのことが、一見有利に戦局を進めているかに見える武田の立場の微妙さを物語っているようであった。