第三話 すれ違う思惑
結論から言ってしまえば、景虎は義輝を助けることができなかった。
まず、一回目の上洛の際には将軍家を助けるというより、朝廷に拝謁することが重要だった。前年に受けた官位への御礼などを兼ねてのものである。当然、連れて行った手兵もほんの僅かで、千五百どころかほんの数十人の供を伴っただけではという説もある。仮に義輝に泣きつかれたとしてもどうしようもないわけである。
付け加えて、永遠のライバルである武田信玄の存在があった。同天文二十二(1553)年九月に、川中島で始めて対陣した。信玄は景虎がお忍びで上洛したと聞いて指を咥えて見てはいなかった。
得意の謀略戦によって、景虎を快く思っていない連中を煽動した。国元で内輪もめが起きたと聞きつけて、景虎は急いで越後へ帰るしかなかった。景虎こと後の謙信が、生前ついに信玄と和睦することがなかったのは、この手の謀略で何度となく痛めつけられた恨みのためである。
さて、二回目の上洛時のこと。この頃、義輝に代わって事実上幕府の最高権力者となっていた三好長慶にも、ようやくその勢いに陰りが見られていた。
前年の永禄元(1558)年、近江の六角義賢の軍事力を背景に義輝が入京すると、これと和睦をせざるを得なかった。一時は京を中心に機内の大半をその勢力下に治めた長慶も、徐々に表舞台から退き始めようとしていた。
とはいえ、この時点ではまだ長慶の存在は脅威であった。五千の軍勢をもって再度上洛した景虎であったものの、地の利は三好側にある。これに対抗するにはやはり数万の大軍が必要となる。
もっともこの時期の景虎の力では一万数千が限度であったし、武田信玄という大敵を背後に残していたのでは五千を率いただけでも上出来といえた。
なにより景虎自身が多少楽観視していた向きがあった。今でこそ、憎っくき信玄に邪魔をされているがいずれ彼奴めを退治した暁には、必ずや三好長慶の首もはねてご覧にいれましょう。自分の軍勢に絶対の自信を持っている景虎は、何度となく胸を叩いてみせた。
頼もしき奴と、義輝は思った。しかし同時に、もう少し急いでほしいともやきもきしていた。景虎自身が楽観的な物の考え方をしていたせいもあったろうが、越後という遠国にいる彼と、実際京にいる義輝とでは明らかに危機感に差があった。
永禄四(1561)年、四度目の川中島の合戦で景虎(この時期、上杉政虎と改名)が信玄と痛み分けとなるともうジッとしていられなかった。己の一字を授けて輝虎と名乗らせたり、北条や武田と和睦するように勧めるなど、義輝はもう一度彼を上洛させようと必死になった。
だが、輝虎は意地になって和睦などしようとしない。そうこうするうちに、三好長慶が他界した。