第三十七話 灰燼の後
現代の視点から見れば、信長の比叡山焼き討ちは政教分離の幕開けであったと言い切れる。実際信長は、宗教が政治に介入することを断固として許さなかった。
元を正せば、対立していた浅井・朝倉に肩入れをしたことが逆鱗に触れたわけである。本心はともかく、信長はこの時自分に味方するか中立の立場さえ取ってくれれば不問にすると言った。比叡山はこれを拒絶した。信長を見くびり過ぎたといってもいい。
実際のところ、この後天正八(1580)年まで続く対石山本願寺との戦争にしても、信長だからこそ執念深く続けられたといえる。
これが信玄や家康なら、心理戦で相手に揺さぶりをかけて譲歩を引き出すだろう。個性の違いもあるだろうが、それだけでは説明し切れない異様さが信長にはある。
比叡山や石山本願寺といった政治に介入をしたがる宗教団体があったのは事実だし、それを排除したという意味では信長は最大の業績を挙げたといっていい。今日信長が評価されるのは、正にこの点に尽きるといっても過言ではない。
ただし、これらはすべて結果を知り尽くしている後世の我々の判断に過ぎない。当事者、あるいは同じ時代を生きた者の視点から見ればまるで異なってくる。
京では、比叡山に行った信長の所業を仏敵、天魔の所為と非難する向きが多かった。ある公家などは、この度の信長の残忍な仕打ちは断固として許せないし、後世に伝えるべきものと日記に記したくらいだ。
歴史というのは、かつて作家の司馬遼太郎が語ったように、対象物と距離を取り鳥が大地を眺めるような俯瞰の視座を取らなければみえないものがある。
同時に、その時代を生きた人々の息吹きを聞き取るようにして資料を読み込まなければ、肝心なものを見落としてしまいかねない。結果論だけで語ってしまうと、歴史は血の通わない埃をかぶった資料の中に埋もれてしまう。
いずれにしろ、信長のうっぷん晴らしにもなった焼き討ちの件は反発を買い、やはり倒さねばならぬと反信長派の結束を固める形となった。
そして、翌元亀三(1572)年五月。その日、甲斐武田氏の居館躑躅ヶ崎館では、信玄が一通の書状に目を通していた。京からのものだ。傍らでは、重臣山県三郎兵衛尉昌景が平伏して控えていた。書状を丁寧に畳みながら信玄は二言、三言、
「将軍家には承知したと伝えよ。それと夕刻より話したいことがある。皆を大広間に集めるとしよう」
「はっ!」
顔を挙げた昌景は喜色に満ちていた。主君の前では、なるべく感情を出すまいと努めているこの男にしては珍しい、とすらいえた。それだけ信玄の語ったことに期するものを感じたといえる。
「信長よ、調子に乗り過ぎたな……」
背を向け山を眺めていた信玄はそうつぶやいた。だが、抑えた口調とは裏腹に、その拳は湧き上がる歓喜を悟られまいとするように固く固く握り締められていた。