第三十六話 皆殺しの朝:後編
事件は、その直後に起きた。
「たちけてっ!」
不意の叫びだった。夢心地であった光秀は、視界に入ってきたものにギョッとした。一人の、年端もいかない少年が泣きながら走り寄ってきた。母親とはぐれたのだろうか、一糸まとわぬその姿は哀れで涙さえ誘った。
光秀は別の反応をした。この子を救ったらどうなるかと。信長は、僧であろうが女子供であろうが一人残らず殺してしまえと厳命した。その言葉は絶対に等しい。
たとえ子供一人であっても、あの方は容赦すまい。下手をすれば武功第一どころではない。この身が……危うくなる。
「く、く、来るな~っ!」
絶叫と共に、光秀は鯉口を切っていた。何が起こったのだ?己の仕出かしたことを前に、ただただ茫然とするしかなかった。我に返った時、斬り下ろした刀の先から赤い滴りが数滴こぼれ落ちていた。
見るまいと思った。だが、足元に大の字になって地に伏した幼い骸は、彼の意志に反して凝視せざるを得なかった。握られた刀が小刻みに震えた。ほんの数メートル先に転がった生首が、どうして?と問いたげにこちらを窺っているかのようだ。感電したように、膝もわななき歯の根が合わなくなっていた。
(わしは、わしは、なんてことを……)
ゆっくりと刀が滑り落ちると、光秀は耳をふさいだ。目を閉じた。だが、それがなんになるというのだ?
斬られた瞬間声を限りに叫ぶ者、死にきれず呻きながら水を求める声は嫌でも脳裏にこびりつき、闇に逃れても生臭い血と火が飛び移って屍体が焦げるさまは鼻につく。
すべてが物語っていた。今ここで、確実に阿鼻叫喚の宴が行われていることを。そして彼が指揮し実行に移したのだ。
自分は悪くない。信長の命令に従っただけ。ただ、それだけのこと。数え切れぬほどつぶやき続けた念仏が役に立たなくなったのは何故だろう。
内なる叫びとは裏腹に、逆流した胃液と共に未消化の飯粒が迸った。咳き込み涙を流しながら、光秀はそれでも命令した。そうせずにはいられなかった。
「何をしているっ!殺せ、殺せ!一人残らず殺せえっ!殿の御命令だ、女子供といえど…女子供といえども逃すなっ!」
光秀の絶叫は間もなく、絶え間なく続く生ける亡者たちの泣き声と、比叡山を覆い尽くす紅蓮の炎にかき消されていった。
山内はことごとく火をつけられ、その黒煙と炎が京まで見えるほどであったという(『多聞院日記』より)。ここで逃げ場を失った人々は、中腹に連なる八王子山に逃げたが翌十三日にその大半が虐殺されていった。
犠牲者は僧俗合わせ三、四千人。公約通り、信長はついに比叡山を焼き討ちにした。そしてこの日を境に、京やその周辺の人々はこう評した。信長は人ではなく、まさに天魔の所為であると。