第三十三話 魔の刻
裏切られ、更に敵を増やしてと散々な思いをさせられた一年が終わり、翌元亀二(1571)年。この年も決して一筋縄ではいかなかった。
五月十二日、信長は五万余りの大軍を率いて、一向宗徒が立て籠もる伊勢長島を総攻撃した。長島は伊勢(現在の三重県)の最北端にある地で、木曽・長良・揖斐川が伊勢湾に入る場所である。
川と湾と多数の中洲や川中島に囲まれているため、容易には攻められない。
案の定、信長軍は完膚なきまでに叩きのめされた。大軍でもって一気に踏み潰そうとしたが、百姓を中心とした門徒の死をも恐れぬ進軍ぶりに織田方は骨の髄まで恐怖を味あわされた。何しろ彼らの教えは、
”厭離穢土 欣求浄土”
と、仏のため戦えば死ぬようなことがあっても、つらいこの世から美しい極楽浄土へと導かれると説いているのだ。初めから死ぬ気で立ち向かってくる相手では震え上がりたくもなる。
それに加え、落ち武者から門徒へとなった下間豊前守頼旦の総指揮の下、ゲリラ戦法で信長軍を混乱させた。
結局、殿軍を務めた氏家卜全の討ち死に、柴田勝家の負傷というありがたくないおまけ付きで信長は退却を命じた。この時の恨みが、三年後の長島一向宗徒殲滅のきっかけとなるのだが、それはもう少し先の話。
信長を敗走させたことで長島はもちろんのこと、和睦中であった総本山の石山本願寺も喜びに湧いた。この風聞は当然、比叡山延暦寺にも伝わっていく。
信長も案外大したことがない。延暦寺の僧侶たちがそう思ったのも無理からぬことだ。なんといっても彼らはまだ、信長と戦火を交えたことがない。知らぬ者の強みで、これで比叡山焼き討ちなど口からのでまかせであろうと油断しきった。
だが、彼らは聞き及んでいたはずである。この年の正月、信長が年賀の挨拶代わりに、比叡山焼き討ちを一番の目的とすることを。その際、何人かの家臣が色をなして反対したが当然聞く耳など持つはずもない。
そして彼らは気がついていただろうか。明智光秀がひそかに、比叡山周辺の土豪と出会いそれとなく抱き込もうとしていた事実を。
人は、自分にとって都合の悪い事実は頭から無視しがちだ。見えていながら見えていない、そんな状況の下で延暦寺の僧侶たちは過ごしていた。
最澄上人の開山以来、八百年近い歴史を誇る聖地も、酒を呑み、女色に耽る雑踏場となり果ててしまっていた。
魔の刻というのは、決して前触れもなしにやってくるのではない。見えていたはずのものを見過ごし、精神がだらけ切ったその瞬間に襲いかかってくる。
民衆と共に、この世に王道楽土を切り開くという理想を持つ一向宗との違いがここにある。延暦寺はそこまで気がついていたかどうか。九月十二日、その時は訪れた。