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第三十二話 是か、非か

 筆者は、半ば呆れながらこの原稿を書いている。何をどうすれば、これだけの敵を作れるのか。信長が目の前にいたら、そう問い詰めてみたい。


 三好三人衆と手を組んだ浅井・朝倉軍が宇佐山城を急襲した。城を守っていた将、森可成もりよしなりは討ち死にし、両軍が京に入るのは時間の問題だった。


余談ながら、後に信長の小姓として仕える森蘭丸はこの可成の三男にあたる。


 迷っている暇などない。一度決断を下してしまえば信長の動きは素早い。九月二十三日の夜半に京へと退陣すると、休む間もなく翌二十四日には近江へと侵攻していた。


一方、比叡山に近い琵琶湖南西の坂本に陣を布いていた浅井・朝倉軍はこれを避けるように比叡山に上って陣を張った。一説には逃げたのではなく、元々こちらに陣を布いていたともいわれている。


とはいえ、信長の早過ぎる反撃に両軍が動揺したのは事実だろう。


 が、ここで信長は大きな壁にぶつかった。比叡山延暦寺が、浅井・朝倉軍に肩入れしてきたのだ。ふざけたことを。舌打ちしながらも、信長は諄々と説得していった。


この信長に味方をしてくれるのなら、畿内にあった叡山領であった荘園はそっくり返してやろう。味方になれないのなら、せめて中立を保ってくれ。だが、このまま浅井・朝倉軍に味方をするのならば、延暦寺を焼き払う。最後は結局脅し文句となった。


 延暦寺は無言であった。やれるものならやってみるがいい。尊大ともいえる自信が垣間見えるような態度といえた。元々、政治権力に対する延暦寺の姿勢は高圧的だ。


平安末期、院政を布いて陰の実力者として振る舞った後白河法皇は、平清盛、木曽(源)義仲、源義経といった武門の実力者を次々と手玉に取った。


義経に至っては、これをおだて倒して鎌倉に幕府を築こうとしていたその兄源頼朝を牽制さえした。まさに政界の裏のドンともいうべき後白河法皇であったが、その彼でさえ比叡山をして、



 「賀茂川の流れ、賽((サイコロ)の目、叡山の僧侶だけは我が意のままにならぬ」


  と嘆かしめたほどだ。そういった歴史的背景を考えれば、信長如きに従えるかと思っていても不思議ではない。


 それでなくても、信長の上洛後叡山は朝廷から認められていたはずの荘園を彼によって差し押さえられてしまった。反感は根深く残るはずである。


いわゆる志賀の陣といわれたこの戦いは、比叡山の介入によって身動き取れぬありさまとなった。


 焦りが信長を責め立てる。敵は彼らだけではない。三好三人衆や大坂本願寺、それに命を受けた伊勢長島の一向宗徒も足元をすくおうと狙いを定めていた。


 信長は決断を下した。それはこの誇り高い男には屈辱ともいえる選択だった。十二月十三日、正親町おおぎまち天皇から和解勧告の命を取りつけることによって戦はひとまず終わりを告げた。


和睦の夜、信長はあまり飲まぬ酒をあおり大いに荒れた。

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