第三十話 ぶざまな勝利
浅井軍の猛攻の前に、信長軍は徐々に押されていった。一時は信長の本陣が脅かされた。浅井長政を敵に回したリスクの大きさを、この時ほど信長は思い知らされたであろう。
それでも地理的に有利な場所に陣形を築いていたことで、かろうじて持ちこたえていた。いうなれば戦略でやや優っていながらも、個々の戦いで浅井に上をいかれるという戦術面で苦戦を強いられていた。
野球で言えば、大量点でリードしていたはずの強豪チームの油断を突くように弱小チームが確実に点差を縮めていく。そう考えればわかりやすいかもしれない。
一方、友軍である家康軍も朝倉軍を相手に難儀をしていた。一進一退の攻防の中、信長軍から度々援軍を乞う使者が馬を走らせてくる。が、朝倉もそうはさせじと釘づけにしていく。
「織田は、持ちこたえられそうもないのか」
「今の所は地の利でどうにか。しかし、浅井の攻めの激しさを考えればそろそろ限界かと……」
「三河の兵であれば、死ぬ気で守り通すであろうがな……」
「御意」
隣国ではあるが、三河の徳川と尾張の織田では気風というものが百八十度違う。流通の発達から経済に通じた尾張に対し、三河は泥臭く武士も農民も昔ながらの生き方を頑なに守り続けた。
織田の家臣が三河を田舎者と嘲笑っているのと同時に、徳川勢は戦は弱いのに算盤勘定だけは達者と尾張武士を軽蔑している。
後の徳川幕府は、士農工商という身分制度で農民を武士の次に上位とし商人を一番下へと貶めた。これは家康の経済流通に対する考え方が保守的であったためもある。
同時に経済を重視した信長・秀吉への反感が、後年具体的な形となったのではあるまいか。それはさておき。
家康は榊原康政に命じて、朝倉の側面を突かせることにした。膠着した戦況を動かすには、もはやのんびりと正面攻撃はしていられないからだ。効果はすぐに表れた。
朝倉にしてみればまさに不意打ちだった。ましてや、彼らにとってこの戦はあくまでも浅井の応援に過ぎない。無駄死はしたくないとばかりに、一斉に敗走していった。
驚いたのは浅井軍だ。あと少しという所まで追い詰めながら、援軍が総崩れとなっては戦いようがない。勢いに乗った徳川に攻められる前にと、これも大急ぎで撤退した。
人間の心理というものは、ある種表裏一体だ。浅井が撤退すると、信長軍は勢いづいてこれに追い打ちをかけようとした。が、信長は、
「今、軍勢が小谷の城下を攻めれば略奪・狼藉の類を働く恐れがある。そうなってしまえば、織田は天下に対して恥をさらすことになる」
と押し留めた。ただし、この言葉は決して鵜呑みにはできない。後に、目を覆うほどの残虐ぶりを示した信長の性格を考えれば、どこか取ってつけたような印象さえ受ける。織田軍には、追撃をかけるだけの力が残されていなかったのだ。
無論人間の心理からすれば、状況が有利になれば肉体は疲れても気持ちを奮い立たせることはできる。だが、浅井は余力を残したままで戦場から逃げ去った。
待ち伏せを受けてしまえば、織田軍の心理的優位も完全に崩れてしまう。リスクの大きさが、信長を踏み留まらせた。
敵がいなくなったので、織田・徳川軍は勝ち名乗りを挙げた。それがいかに空虚で煮え切らぬものであったかは、信長以下織田の軍勢は口に出さずとも思い知っていた。
ダウン寸前まで追い詰められながら、相手側が勝手にタオルを投げて負けを認めたようなものだ。徳川軍の逆転があってこその勝利であり、そういった意味では素直に喜べなかった。
この勝利がしょせん一時的なものでしかないことは、間もなく信長は嫌というほど思い知らされる。いずれにしろ面目を保った信長は、戦勝報告のため一路京を目指した。
姉川の合戦(あるいは姉川の戦い)も定説が覆りつつあるものの一つです。朝日新聞の2009年7月9日掲載によりますと(詳しくはウィキペディア「姉川の戦い」外部リンクを参照)、合戦というほどの大規模なものではなく浅井軍が小規模で織田軍に奇襲をかけたものではないかという説がとりあげられています。浅井軍はその奇襲が失敗に終わったため、早々と撤退したのではというのです。
え?そうなの?とすぐには信じ難いところですが、逆に戦闘らしい戦闘をしないでお互いが手を引いたからこそ、浅井・朝倉軍は力を温存してその後も信長軍に対抗出来たのかも知れません。
それまで通説とされていた浅井軍の先方を務めた、磯野員昌による織田軍13段の陣形のうち11段を突破して信長の本陣に迫るほどの激戦というものも、初出が『浅井三代記』という江戸時代元禄期に出版された資料からなので、激戦であったかどうかということも疑問視されているわけです。
致命的なのは、『信長公記』や『三河物語』といった他の資料には同じ記述が一切ないということです。昨年放送した大河ドラマ『江―姫たちの戦国―』を観ていた方でしたらご存知でしょうが、三代将軍徳川家光の生母お江の方は浅井長政の三女でした。つまり家光にとって、長政は母方の祖父にあたるわけです。
『浅井三代記』がどのような経緯で編纂されたのかはわかりませんが、生まれながらの将軍と自ら宣言した家光の、父型の祖父がご存知家康で母方が浅井長政となれば、家康に負けないくらいの器量人でなくてはという編纂者の意図が働いていたとしてもおかしくありません。
事実、長政は父・久政の時代から従属関係を強いられてきた南近江の六角氏から独立し、合戦によってこれを破ってきた実績があります。重複するようですが、信長が長政と同盟を結んだのも当時敵対関係にあった美濃の斉藤氏を牽制するためでもありましたが、長政の武将としての力量を認めていればこそだったでしょう。
そんな信長も一目置いていたという背景もあって、『浅井三代記』の作者としては最終的には敗れるにしても浅井にいい格好をさせたかったのかもしれません。いずれにしても、定説と思われていたものは意外な形で覆されるものなのかもしれません。
ちなみに、各資料に掲載されている織田・徳川連合軍、浅井・朝倉連合軍の戦力の比較は以下の通りとなります。これだけの戦力の開きを見ても、姉川の合戦というものが重要視されていた割にはその詳細がアバウトだなという印象を受けます。
『三河物語』
織田:10000
徳川:3000
『信長公記』
浅井:5000
朝倉:8000
『甲陽軍鑑』
織田:35000
徳川:5000
・
浅井:3000
朝倉:15000