第二十九話 激戦・姉川
信長にしてみれば、浅井長政が動いてくれたのはしてやったりだった。金ヶ崎の恨みを一気に晴さんと手ぐすねを引いていた。当然、越前からは朝倉勢が長政の援助にと南下してきた。
ある種不可解なのは、この時朝倉軍を率いていたのが当主義景ではなく軍奉行朝倉景健であったということだ。これを、義景が臆病であったからと見る向きもあるが果たしてどうか。
むしろ義景は、わざわざ自分が出向くまでもあるまいと考えての処置と考えれば自然である。
実際のところ、義景の代には朝倉家といえば越前における武家の名門の如き存在となっていた。それも、約一世紀近くにわたって朝倉氏が越前を支配してきたこと、先代孝景の幕府に対する軍事面・経済面での支援が効を奏していたためだ。
いわば義景は、父祖以来の遺産を元にこれまで生きてきた。己の権力はごく自然にあって当たり前という意識があれば、そこには鼻持ちならないほどの優越感さえ芽生えてくる。
そんな彼にしてみれば、信長など単なる成り上がり者にしか見えない。浅井・朝倉の共同の敵ではあっても、元を正せば長政が招いた宿縁。決着を着けるならば、信長と長政とで片をつければいいのだ。
義景がそう考えていたとしてもなんら不思議ではない。いうなれば、彼は信長をまだ見下しなめていたとしか言いようがない。
さて、信長である。援軍の徳川勢と共に近江に侵攻はしたが、浅井の居城小谷城を前に追撃が止まった。これは容易ではない。初めて見る小谷城を前に、信長は思わずうなった。琵琶湖からの比高三百メートルの山岳に立つ小谷城は、難攻不落と言われても差し支えない要害に見えた。
すぐには落とせぬな。信長は、長期戦を覚悟せねばと気を引き締めた。正面から小谷城を馬鹿正直に攻めても仕方ない。攻略の足がかりとして、まず南方の横山城から奪いとろうと軍勢を動かした。
元亀元年六月二十八日、この信長・家康軍と浅井・朝倉軍が姉川を挟んで対陣する形となった。長政にしてみれば、ここで一気に決着をつけたいと勢い込んでいた。
戦意の点では、明らかに彼のほうが侵入者である信長たちに優っていた。戦は、この長政の意識にひきずられる形で始まった。
午前四時、信長軍二万三千、家康軍五千の連合軍と、浅井五千・朝倉一万三千による連合軍、二万八千対一万八千の戦闘は開始された。戦力からいえば、信長軍の優位は動かない。
また、姉川に浅井勢が来ることを見越して、信長は戦略上重要な拠点である竜が鼻に軍勢を配置した。勝って当然かに見えた。が、戦とは常に計算通りに運ぶものではない。
浅井軍は、一気に信長軍に攻めかかった。戦力の差からいって、浅井・朝倉軍は動くまいと見ていた信長軍は浮き足立った。そのまま浅井に押し切られるようにして、戦は進められていった。
実際、浅井軍の急襲によって思わぬ苦戦を強いられる。織田軍が総崩れしてもおかしくない状況であった。まさにピンチである。