第二話 景虎上洛
文中では将軍義輝が長尾景虎と会った直後に追放されたかのように書いてありますが、実際には三好長慶との勢力争いに敗れた結果近江朽木に五年もの間逃れていたというのが史実です。そのため、最初の上洛では景虎は義輝とは対面していません。当時、資料を読む際にどうも事実関係を勘違いしていたようです。面目ない次第です(汗)
「若造が。誰のおかげで公方(将軍の意)面ができると思うておる」
天文二十二(1553)年、将軍義輝を隣国近江(現在の滋賀県)に追放した三好長慶はいまいましげにつぶやいた
。同じ年、越後を統一して勇名を馳せていた長尾景虎(後の上杉謙信)がかねてからの義輝の要請により、千五百の軍勢を率いて上洛した。自分より六つ年上のこの武将の噂に違わぬ勇ましさと忠誠心に、義輝はすっかり有頂天になった。
お主だけが頼りじゃ、幕府や余のためにこれからも力になってくれよ。そのようなことを景虎に手放しに頼み込んだ。面白くないのは長慶だ。自分こそが崩れかかった幕府を支えているというのに、越後の田舎大名如きに尻尾を振るとは何事ぞ。
このような将軍など必要ない。かくして、長慶は直接の主人である管領の細川晴元共々、義輝を京から追い出してしまった。将軍の権威など形だけのものとなってしまっていたこの当時、将軍が追放されるのは決して珍しいことではなかった。義輝の父、十二代将軍義晴に至っては京に帰れぬまま流浪の地で病没したくらいである。
幸い、義輝の場合は五年余りで長慶と和睦して入京することが出来た。無論、三好長慶やその腹心松永久秀に対する反抗心は失ってはいない。父やそれまでの将軍同様、有力な重臣によって操り人形として利用されることに、憎しみに近い感情さえ持っていたからだ。
翌永禄二(1559)年、景虎が今度は五千の軍勢をもって上洛すると、義輝は以前にも増して頼みにした。このまま京に留まって余を警護してくれ。泣かんばかりの義輝の懇願に、義侠心の塊である景虎は胸を熱くした。
義輝が景虎を殊の外頼みにしたのもたしかにうなずけた。この時期、既に景虎は甲斐の武田信玄、小田原の北条氏康と戦火を交えていた。ただし、他の武将のように己の領地を増やしたいという野心があってのことではない。
信玄とは、彼の者に攻め滅ぼされた信州の豪族たちに泣きつかれ、氏康に至っては、関東管領(地方長官みたいな重職)の上杉憲政に地位を譲るので代わりに北条氏を討伐してくれと頼み込まれた。ちなみに、この経緯によって数年後景虎は関東管領の拝命を受け、上杉政虎と名乗るようになる。
いうなれば、景虎の戦というのは一から十まで義のため他人のために行われたといってもよかった。陰謀や野心が常識とされた戦国の世にあって、非常に稀でだからこそ唯一の救いともいえるのが長尾景虎の存在そのものといえた。
この人物だけは、決して自分を裏切ったりはしない。確信を持った義輝は、景虎にすべてを託した。いや、託しかった。景虎とて、出来ることならこの若き将軍の側を離れることなく、これを守り通したかった。
景虎の事情が、それを許してくれなかった。