第二十七話 追う長政
将軍義昭は信長と手を切りたがっている。朝倉義景を通じて得た将軍家からの密書に、長政が動揺したのは無理はない。御父とまで崇めていた信長をなんで今更……。
政治の複雑さと、義景か信長かの選択に長政は煩悶した。そこへきて今回の越前攻めだ。やはり朝倉のほうが正しかったのか。追い詰められた彼は、結局父祖以来の情に流された。
だが、決断してもなお長政の行動には精彩がない。信長に、朝倉に味方するという書状まで送りつけたにも関わらず、浅井軍は迅速に金ヶ崎へと向かわなかった。どこかで後ろめたさがあったのか?
その点、信長のほうは素早い。金ヶ崎城を木下藤吉郎秀吉に任せると、取るものも取りあえず全軍に撤退を命じた。
それどころか、自分が積極的に馬に飛び乗って逃げたくらいだ。後に、秀吉が天下人になった際当時を振り返って、
「あの時の信長公の逃げっぷりの速さときたら、それはもう見事なものじゃった」
笑いながら話すことしばしばだった。この時点で、信長と長政の行動には既に差がつき始めていた。
ある意味で、長政の行動は馬鹿正直だったといえる。信長が無断で朝倉を攻めた時点で、浅井への裏切りははっきりしていた。
本来、そのような相手に朝倉に味方して後ろから攻めますよと宣言する事自体、甘いといえば甘い。長政は、わざわざ宣戦布告することなどなかったのだ。
もっとも彼にしてみれば、信長のような卑劣な人間と同列になりたくないという、せめてもの抵抗があったのだろう。長政の心情を思えばうなずけなくもない。
それでもなお、浅井軍の行動の鈍さは致命的だった。金ヶ崎に到着した頃、既に信長軍の姿はなかった。あわてて追いかけようとするが、殿軍の秀吉軍に阻まれてしまう。
両軍の間で激戦が展開され、危うくなった秀吉軍をやはり殿軍として残った徳川家康の軍が助ける。後に天下人となったこの両将が、金ヶ崎で死線を共にしたというのも考えてみれば不思議な縁である。
金ヶ崎まで攻め上らず、あるいは後方で逃げ道をふさいでいたなら、長政は信長を大敗させていたかもしれない。信長の命もどうなっっていたことか。
事実、長政は北近江方面の北国街道を封鎖しようとしていた。この情報を得た信長は、まったく正反対の京方面の三方~朽木という迂回路を通って退却した。
信長は退却に際して、畿内の地理や情勢に詳しい松永久秀を伴って落ち延びていった。よくもあの姦雄をと思えるほど、ある種大胆といっていい人選だった。
落ち延びる際、久秀は自慢の舌鋒でもって信長を討ち取ろうかと思案していた朽木元綱といった周辺の豪族を丸め込み、京へと道を切り開いていった。
四月三十日、信長はまんまと京へ逃げ延びた。長政は、千載一遇の好機を逃してしまった。これが後年の悲劇へとつながる。
え~っと、訂正です。私の少年時代には金ヶ崎の退き口は、秀吉と家康が殿軍を務めたと本で読んでいたのですが、その通説は現在覆っています。秀吉が殿軍の一人だったのは確かですが、主力を率いたのは池田勝正で三千の兵で鉄砲を大量に使用していたとのことです。
ちなみに明智光秀も殿軍の一人に加わっていたようで、これより十二年後に、本能寺の変以降天下取りの主導権争いをする秀吉と光秀が死線を共にしたというのもやはり何か運命的なものを感じます。
そして、金ヶ崎において長政が信長を仕留められなかったのは長政の決断不足みたいな書き方をしましたが、実際には信長軍の撤退が異様なほど速かったこと、つけ加えて朝倉義景が軍勢を動かさなかったのが大きな要因でした。
考えてみれば、朝倉義景って人は足利義昭が上洛してくれとせっついても、義昭を奉じて上洛しようとしなかったほど決断できない人なんですよね。いくら父祖の代から世話になっていたとはいえ、こんな凡将のために(義景個人というより、朝倉家という一族に対する恩という気持ちでしたでしょうが)信長を裏切るなんて浅井長政も早まったなと、現代の私たちはどうしても見てしまいがちです。
でも、いざ自分が同じ立場に立たされたら義理人情をスパッと断ち切れるかというと返答に窮するところです。歴史を語る難しさを、自分と重ねあわせた時にふと感じてしまいます。