第二十話 ルイス・フロイスは見た:前編
和田伊賀守惟政。読者の中で、この名前を覚えている方がどれだけいるだろう。そう、十五代将軍義昭が僧覚慶として逃亡生活を余儀なくされていた頃、これをかくまった一人が惟政である。
(第六話 逃亡、逃亡、また逃亡を参照)その惟政が、高山ダリヨ(後のキリシタン大名高山右近の父)を介して一人の宣教師と出会った。彼の名はルイス・フロイスといった。
1548年、フランシスコ・ザビエルが宣教師として初めて日本に訪れる前年、彼はイエズス会に入会した。かつての大先輩がそうしたのと同様、日本にキリスト教を布教させる使命感に燃えたフロイスは、63年7月に来日を果たした。
ちょうど時の将軍義輝と三好長慶との関係が、相も変わらず険悪であった頃のこと。翌年末、やはり在日イエズス会が布教地として重視していた京へと派遣される。
が、皮肉なことに京はこれ以降松永久秀と三好三人衆の勢力争いで日夜戦乱に巻き込まれていく。そうした過程で、フロイスは久秀によって体よく追放されてしまう。
熱心な浄土宗徒である久秀が(彼の残虐さで彩られた人生を振り返ると、悪い冗談にも聞こえてしまうが)、邪教と忌み嫌ったためである。そんなフロイスを、惟政は紹介された。
人と人との出会いは、ある種の妙を生み出す。あるいはそれを運命というのだろう。惟政を知ったということは、フロイスにとってもキリシタンにとっても一つの幸運であった。
惟政はよほどの人格者だったのだろう。かつて政治的にはまだ無名・無力に等しかった覚慶をかくまった時の義侠心が働いた。ちなみに惟政自身は、禅宗徒であったため信仰心に突き動かされて、というのとはいささか違う。
「なんとかしてみましょう」
静かにうなずいた男の約束は、すぐに現実のものとなった。惟政は、主君信長にこの気の毒な宣教師について報告をし、京へ戻れるようにと取り計らった。
後に在日イエズス会が、惟政を都の総督と位置づけ(無論、誇張に過ぎないが)キリスト教の保護者であり父であると手放しに称賛したのも、このような背景があったからだ。
事実、元亀二(1571)年八月に惟政が戦で敗死すると畿内のキリシタンは精神的な打撃を受けた。惟政は、そのような人であった。
さて、フロイスである。永禄十二(1569)年三月、信長に謁見したフロイスは後に記した『日本史』の中で、
”彼は中くらいの背丈で、華奢な体軀であり、髯は少なくはなはだ声は快調で、極度に戦を好み、軍事的修練にいそしみ、名誉心に富み、正義において厳格であった。彼は、自らに加えられた侮辱に対しては懲罰せずにはおかなかった。”
と、この統治者に関して、詳細な人物像と評価について言及している。今日我々が知る信長像は、太田牛一の著した『信長公記』とフロイスの記述に負うところが大きい。
信長は、興味深そうにフロイスを見据えた。




