第一話 将軍弑逆
永禄八(1565)年5月19日、京において極めて衝撃的でかつ象徴的な事件が起きた。時の十三代将軍足利義輝が責め殺されたのだ。相手は、幕府の重臣三好義継と三好三人衆それに松永久秀が嫡男久通であった。
この日の夜、義輝が居を構えていた二条御所では凄惨、としかいいようのない生き地獄が展開されていた。まず義輝だが、形としては室町幕府の最高権力者であるべき彼には、不意を突いた襲撃者たちを迎え撃つだけの軍勢がなかった。
義輝の五代前の祖先にあたる八代将軍義政の時代以来、将軍家の存在そのものがもはやあってないが如きとなっていた。原因は義政の治世の頃巻き起こった応仁の乱(1467-77)のためだ。義政の後継者を巡っての内輪もめが、やがて同じ幕府の重職にあった二人の人物、山名持豊と細川勝元の激しい勢力争いの結果戦乱が生じた。
下の者たちの横暴としかいいようのない振る舞いに対し、義政は無力そのものだった。なにより、騒動の元凶をばらまいた夫人の日野富子に対して、これを叱りつけもせずただただ自分の趣味の世界へと逃避してしまうような人物だ。戦乱を収めるなど、望むべくもない。
この時点より、室町幕府と将軍の存在は事実上地上から消滅したといっても過言ではない。以後、中央や地方において、身分は低いが実力のある者が隙を見て形ばかりの権力者に取って代わる下克上、戦国の世が始まる。
それより一世紀近く後、酷な言い方をすれば将軍はその時々に出る実力者にいいように使われる操り人形となっていた。幕府という組織自体、権力者の亡者たちにとっては自分の利権や権勢欲を満たすための巨大な遊び場と化している。このような状況で、どれだけの人間が将軍に忠誠を尽くせよう。
だが、義輝はこれを拒絶した。彼にしてみれば、人形の首を自在にすげ替えるように将軍家がいいように利用され代えられてしまうことに、もはや我慢がならなかったのだ。三好・松永を中心とした者たちを取り除くためにも、彼には手助けが必要だった。
中央においては、特に松永久秀に表立って歯向かってまで義輝に忠誠を誓うものはいない。若き将軍は、地方の実力者に活路を求めた。白羽の矢が立ったのは、越後の長尾景虎(後の上杉謙信)だった。
戦国の世に珍しく、将軍家を頂点とした室町幕府の権威を妄信してやまない後の名将は、義輝をしてその一字を貰い上杉輝虎と名乗らせるほどに将軍に信頼された。いつになったら、不義不忠の輩共を退治してくれる?甲斐の武田晴信(後の信玄)、小田原の北条氏康と敵対関係にあった輝虎に、義輝は一日も早く彼らと手を組み将軍家を助けてくれと矢の催促をした。
時の荒波に必死に抗おうとする、若き将軍の精一杯の努力といえた。だが、あまりにも目立ち過ぎた。猛獣たちは、牙をむく機会を狙っていた。