第十八話 蜜月の終焉
永禄十二(1569)年二月、信長は先の三好三人衆の襲撃で焼き出された義昭のために、新しく二条城を築き上げた。この城は、信長自らの陣頭指揮によって僅か七十日間で完成された。
後に、徳川歴代将軍が京へ滞在する際に宿所とした二条城は、これより離れた場所に造営された。
城だけでなく、信長は京の町にも防塁や土塀を築いていった。古来から京は攻めるに易く守るに難い土地といわれている。盆地ですり鉢状の地形によって全体を山から見渡せるし、平安の都の頃から四方に道路が張り巡らせてある。
この道が外敵の侵攻を容易にしていた。各地からの朝廷への貢ぎ物をいち早く届けるためにと整備された道の数が、皮肉にも京をしばしば戦乱に巻き込む要因となっていたのである。
まさに、義昭が御父と最大限の感謝をこめたほどに信長は慈愛に満ちた存在に見えた。同じことは都の人々にも言える。
今や彼らにとって、頼りにすべきは将軍義昭でも朝廷でもなかった。むしろ、庶民たちこそ信長を御父と呼びたかったところだろう。
実際、上洛した際信長は、当時の兵士たちが戦場での役得として行なっていた略奪・強姦の類を一切ならぬと厳命した。
二条城造営の折には、道ゆく婦人をからかって笠に隠れた顔を覗き込もうとした雑兵を、物言わず走り寄って首を斬り落としてしまったくらいだ。
人の命が軽い戦国の世といっても、これはある種エキセントリックな信長の性格や将来を見据えた意図さえ感じさせる。
信長に対する傾倒に反比例するように、人々の義昭への態度は侮蔑さえ垣間見られた。将軍だなどと威張っておきながら、自分の城さえも信長に築いてもらうという体たらくぶり。
そんな義昭を皮肉るように、九枚の割れた貝殻が門前に何者かによって打ち捨てられているというちょっとした事件さえ起こった。
九枚の貝は苦界、つまり苦しい現実の世界を表しており、将軍は権威だけで現実には何にも力がないと当てこすっているのだ。これが、義昭自身にも報告されたのかどうか。
ただ、二条城完成から僅か半年後の十月、信長は義昭に断りも入れずに岐阜へ帰ってしまった。一年前とは明らかに違っていた。ちょうど伊勢平定を終えた直後である。
この時期、かつて実の父子の如く接していた義昭の心境に疑念が湧いてきたためだ。なんのことはない、信長は自分を体のいい操り人形にしようとしてるのではないか、と
都の者たちが寄れば触れば信長を誉めそやし、将軍を頭から軽んじているということは噂として伝え聞く。
すべては、信長本人の実力のなせる業であり義昭の僻みとも見えよう。だが、それでも家臣たるべき者が主人を凌ぐ人気を得ることは穏やかではなかろう。
そんな想いが態度にも見えてか、信長はサッと身をかわした。まずかったか。ふと、後悔しかけた義昭であった。が、間もなく彼の人格すらも変えるほどの激情が訪れることになる。
それまでの甘い幻想を打ち砕く無残な現実によって。