第十七話 明日への一手
「駿河を、なかなか治められぬのう」
信玄が面白くなさそうに黒の碁石をパチリとさせると、
「されば、小田原のほうからちょっかいを出してきますれば」
口元にだけ笑みを浮かばせた重臣山県昌景は、白碁石を音もなく打ち据えてきた。
駿府を占領してからかれこれ九ヶ月ばかり。その間に今川氏真も追い出し、一時は掌中に入ったかに見えた駿河の国であった。しかし、氏真に泣きつかれた小田原の北条氏政との駆け引きで取ったり取られたりを繰り返している。
氏政がムキになるのもわからぬでもない。元を正せば、三国同盟を破って一方的に今川領に侵入した信玄のほうに非はある。それに北条氏には、古くから今川氏と縁がある。
鎌倉幕府の執権であった北条氏と区別するため、後北条氏とも呼ばれるこの一族は伊勢新九郎長氏こと早雲をもって始祖としている。一説に、京の名族伊勢氏の流れを汲むとされた彼は、食い詰めて駿河の今川氏に奇食した。
妹が(姉という説も)、輿入れしていた縁からだった。以来、謀略でもって伊豆一国を奪い取ったのをきっかけに、氏綱、氏康、そして現在の氏政と、後北条氏は小田原を拠点に着々と関東一円に勢力を伸ばしていった。
彼らの今日の繁栄は、その実力に負うところも大きいが今川氏との深い縁(氏康と義元の時代に険悪な時期もあったが)に寄与するところも多い。
(だが、それも昔の話だ。いつまでも、古びた証文に振り回される必要もなかろうて)
数ヶ月前にも、名を謙信に改めた上杉輝虎と北条は同盟を結んだ。関東の覇権を巡って、長年いがみ合っていた両者が、である。すべて信玄への牽制のためだ。
おまけに、共に今川領を侵攻した三河の徳川家康との間も険悪になってきた。そうなれば、同盟者である信長とて肩入れせずにはいかない。四方を敵に囲まれつつある信玄といえた。
「されば、駿河はあきらめますかな?」
見透かしたような昌景の一言に、
「なんの。周りがうるさいのならば切り崩していけばいいだけよ。それで、準備のほうは」
「既に整うておりまする。御屋形様の御下知さえあれば、今夜にでも出陣できます」
「ひとまず、小田原の犬を懲らしめてくるとしよう。キャンキャンとうるさくて敵わないからのう」
「御意」
薄笑いを浮かべて、重臣はゆっくりと平伏した。まずは、北条を実力で黙らせること。そこから始めなくてはいけない。駿河を完全に手に入れるためにも。その先にあるものを捉えるためにも。
「京までは、まだまだ遠いのう……」
つぶやいたこの武将の目には、傍らの昌景も小田原も飛び越えて遥か彼方を見据えているかのようだった。
永禄十二(1569)年九月、上野(現在の群馬県)に侵入した武田軍は一路小田原を目指していった。信玄の遥かなる夢のための一手を放つために。上洛という、長年見続けてきた夢へ向かって。