第十六話 今川氏滅亡
時計の針を、ほんの少しだけ戻してみる。三好三人衆が、将軍義昭を襲撃しようと手ぐすねひいていた頃、駿河(現在の静岡県中部)では国主の今川氏が滅亡した。
今川氏、といえば、先代の義元は海道一の弓取りといわれたほどの武将だった。武田や北条と縁戚関係を結んだ三国同盟は、彼の軍師太原雪斎の発案によるものである。
東と北に強力な味方ができたことで、義元は三河(現在の愛知県東部)を攻め取り岡崎の豪族松平広忠の嫡男竹千代を人質とした。松平元康、後の徳川家康である。
その隣の尾張では、織田信秀(信長の父)が武将として急成長を遂げ美濃の斉藤道三や義元を向こうに回して善戦した。とはいえ、戦力の差で度々敗れ四十二歳で信秀が急死すると、尾張はたちまち混乱状態となった。
義元にしてみれば絶好の好機であったが、武田や北条へ援軍を回したりでなかなか尾張攻めに集中できない。もっとも、跡を継いだのが家臣にまでうつけ者と陰口を言われている信長であればいつでも踏み潰せる。
そんな侮りが彼にはあった。
そして永禄三(1560)年五月十九日、二万五千の大軍でもって上洛を目指していた義元は、桶狭間にて信長の奇襲を受け首を明け渡す羽目となってしまう。
一廉の人物であったが、あまりに惨めな最期を遂げたため後世義元は凡将・愚将のそしりを甘受することとなった。侮りが油断を生み、足元をすくわれた一例といえる。
義元の敗死、これも確かに今川の悲劇であったが、それ以上に深刻だったのは後継者であった。亡父の跡を継いだ十代目氏真は、凡庸を絵に描いたような男といえた。
唯一の取り柄が、京の公家の遊びである蹴鞠でこの点は京風好みであった父親の血を受け継いでいた。ただ、それだけである。
氏真の無能を見透かした松平元康は、今川氏からの従属を断ち切り信長と同盟を結んでいく。名前も徳川家康と改めて完全に縁を切ってしまう。
氏真は怒り狂い、人質となっていた家康夫人の築山御前と長男信康を見せしめに討ち取ろうとしたが、家康にまんまと取り戻されてしまう。
この頃から、甲斐の武田信玄が家康と語らい、駿河・遠江といった今川領を徐々に侵略していく。氏真にしてみれば、家康だけでなく信玄までもがと腸が煮えくり返るが、何一つ彼らに対抗するだけの術がない。
小田原の北条氏政に泣きついてはみるが、しょせん世間知らずの氏真と百戦錬磨の経験を持つ信玄とでは、戦うべき土俵が違い過ぎる。
信玄は、今川家の家臣を籠絡したりと内から外から徐々に確実に、それこそ晩年の家康にもひけを取らぬ老獪さでもって、駿河を手に入れていった。
永禄十一(1568)年十二月十三日、この日間違いなく駿河は武田家の支配下に置かれた。氏真は国主の座から転落した。父・義元の死から実に八年後のことである。
それから約半年後、家康によって最後の居城掛川城を開城させられると氏真は北条氏を頼っていく。かくして、将軍家足利氏の支族であった名門戦国大名今川氏は地上から消滅した。