プロローグ
はじめまして。10年くらい前に発表した作品ですので、今読むと粗が目立ち気恥ずかしい限りです。歴史物ということで、変に気構えずに読んでいただけたら幸いです。
彼は、最高権力者だった。初代尊氏以来、二百数十年の長きにわたって続いてきた武家政権室町幕府。その中心である十五代将軍、足利義昭。それが、つい数年前まで世を捨て僧となりながらも、兄の突然の死によって生臭い政治の世界へ身を投じることとなった男の名であった。
そんな義昭も、目の前にいる男の前ではどこか自信がなさげだった。無理もない。彼をここまで押し上げたのは、一から十までこの三つ年上の男のおかげなのだから。
「信長殿、いや御父上よ、あなたを管領に任命したいのだが……」
管領とは、室町幕府における重職である。かつて幕府の権威を地に落としめた応仁の乱の首謀者の一人、細川勝元(1430-73)がこの地位にあった。幕府に仕える者としては、事実上最高の地位であった。だが、信長は無言であった。
「では、副将軍はどうであろう……」
義昭にしてみれば思い切った譲歩といえた。足利氏でもない者が、将軍に次ぐ地位へ任命される。三つほどしか年の違わぬ信長を、御父と崇めている義昭が名実共に相手を血縁者同様にみなした瞬間だった。
それでも、信長は無言だった。まさか、これでもまだ不満だというのか?やや不信に駆られた目つきで、義昭は信長を凝視した。将軍の思惑をよそに、信長はしばし沈黙を守っていた。が、軽く咳払いをした後、
「管領も、副将軍もよろしいです。その代わり……」
「その代わり?」
義昭の喉元が、期待と不安でグビリと上下した。
「私めに、堺の地を譲っていただければそれで結構です」
「それだけで…よいと申すのか?」
「いかにも」
ホッとした。同時に拍子抜けもした。信長のあまりの無欲さに対してである。望めば自分と親戚関係を結び人臣位を極めることができる。そのような立場にいながらも、彼が望んだのは僅かな土地だけであった。
さりとて、後から心変わりをされても困る。義昭は一も二もなく承知した。だが、義昭は気がついていなかった。この時点において、堺がどれほど重要な場所であるか、そこまで思い至っていなかった。
事実、堺を占拠したことで信長は、その後ライフワークとなる天下布武への道をひた走ることとなる。そしてその途上では、戦国最強を謳われた武田氏すらも滅亡させるまでに至る。
すべての筋書きは、義昭が堺の重要性に気がつかなかった瞬間から既に書き上げられていた。そしてそれは、近い将来確実に起きていく義昭と信長の決定的な対立の序曲に過ぎなかった。