読書/中島敦 『環礁 真昼』 ノート20160518
物語の筋はごく単純で、現地の、おそらくは酋長の屋敷の一棟をなす小屋のようなところで、心地よい昼寝から目覚めた「私」が、家人だと思われる少年に、食事の準備ができたからおいで下さい、といわれてのそのそ起き上がるというだけの話だ。しかし本エピソド「真昼」は、これまでの旅の意義・目的、テーマについて、作者であろう述者「私」の独白といえよう。
戦前の大日本帝国信託統治領ミクロネシアを管掌する南洋庁の公務としての土俗調査のため、パラオ首都島コロールと離島を連絡する小汽船・国光丸一等室での旅で、気の利いたホテルがないものだから、各島有力者の家に厄介になっての旅となることが多い。どこの島かということにさして意味はなく、名前すらもあげていない
残酷なほどに美しい離島の風景はまさにパラダイスだ。「私」の時代よりも少し昔、欧州では、「自然に帰れ」という運動があった。画家ゴーギャンや作家ロディとかが当時の風潮に乗ってタヒチにやってきた。「私」も彼らも文明という現実から、自己逃避の方便として南方にきた。
ゴーギャンにいたっては薄っぺらいキャッチフレーズにまんまと乗せられて南洋の島タヒチに住んだのだけれども、頭にはやはり文明というものがあって、現地の自然には溶け込めない。そして自殺を図ったものの隣人達に助けられて、「人間はどこからきてどこにゆくのか」という言葉を残すことを知っている。無様だ。
――「私」は違うと否定する。
南洋庁が所管する島々が薄々戦場になるだろうということを予感し、ヘミングウェイのように、冒険を求めて南方にきたはずだ。しかし訪れてみると、明るく健康的で、天国をみるようなそこに身を置いている自分が、夢心地に飛ばされ、逃避者がいままさに出航しようとする船に乗らんと、タラップ階段の一段目に足をかけているかのような、違和感と焦燥が湧きだしているのを悟る。そういう葛藤で当エピソドの大半が埋め尽くされている。
本作が所収されている『環礁』は、南洋庁が置かれた首都島コロールからでた小汽船が、所管の島々を巡ってゆく掌編シリーズで、先にだされた『南島譚』の続編として読んでもよいと思う。
――読者たる拙はここにきてハタと気付かされる。……ギリシャ神話にでてくる海神ポセイドンの息子トリトンが、自分探しをしている「私」をせせら笑うというくだりから、二つの掌編群は中島敦という帝大卒官僚・インテリが織りなす貴種漂流譚『オデッセイ』なのではないのかと。
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引用参考文献
中島敦「環礁」『中島敦全集2』(筑摩書房1993年)47-112頁中74-79頁)
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ノート20160518