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もう一度妻をおとすレシピ 第7冊  作者: 奄美剣星
読書感想文
17/100

読書/真砂博成 『五月の嵐』 ノート20170412

   ~真砂博成 『五月の嵐』 創元社1997


 プロローグ――ヴェルサイユの恨み/●ヴェルサイユ条約では、フランス主導のもとに、対ドイツ賠償額は、1320億マルクで、当時の日本の40倍もの国家予算分となった。後に経済学者となる英国大蔵省主席代表ジョン・M・ケインズは、「カルタゴ的講和」といって批判した上で、「小生はこの悲劇的な猿芝居に加わることはできません。即刻悪魔の場から立ち去ります」といって辞表を提出した。 ●(そして第二次ポエニ戦争は始まった……)ドイツ戦車兵団はカルタゴのハンニバルによるアルプス越えよろしくアルデンヌの森を突破しドーヴァー海峡に達し、英仏舞台を含む200個師団の連合軍を孤立せしめた。 ●英国人は海の民である。40万に及ぶ自国の大陸派遣軍を見殺しにしなかった。ダンケルクの波打ち際に追い詰められた味方兵を小舟まで動員しえ救出したのだった。作戦には多くの一般市民も参加した。

     *

 第1章 歴史の活断層 

 001 大戦の勃発 15 /●1938年夏、ヒトラーはドイツに隣接したチェコスロバキアのズデーデン地方をドイツに割譲せよと要求。ドイツ人が半ばを占めていた。 ●軍縮を進めたチェンバレン首相はヒトラー登場により一転軍拡の必要に迫られる。とった対策が時間稼ぎのための宥和政策だった。 ●チャーチルとアンドレー・モロアとの晩餐でチャーチルが海老の脱皮の話題に。 ●1939年3月、ドイツ軍のチェコ侵入。 ●9月1日、ドイツ軍ポーランド侵攻。 ●9月3日、ポーランドの同盟国英仏が、ドイツに宣戦布告。第二次世界大戦となった。 

 002 ポーランドの戦い 21/●ドイツ軍電撃作戦。 ●9月14日、秘密協定により、ソ連がポーランドに侵攻。9月28日、ポーランドは降伏(ドイツには27日に降伏:29頁9行)。

 003 偽りの戦争 24 /●ドイツ軍が西部戦線に姿をみせず銃声が鳴らなかった8月間を、仏「奇妙な戦争」、英「たそがれの戦争」、米「偽りの戦争」、ドイツ「座り込んだ戦争」

 004 「黄色いプラン」 29 /●9月27日午後、ヒトラーは総司令官を集め、西部大攻勢を開始する決意を表明した。作戦では、中立国ベルギーとオランダを通過するというもの。 ●10月19日、陸軍参謀本部の第一案「黄色いプラン」が採択される。23日、攻撃開始を11月12日に繰り上げると宣言。29日、ハルダー参謀長がプラン改定案を提出したが却下。 ●マンシュタインがポーランド戦線から帰投。ダンケルクでカンナエの包囲殲滅陣形を再現しようと画策。 ●メクレイン事件。メッサーシュミットがベルギーのメクレインで不時着し振興計画を示す書類が焼却しきれないうちにベルギー官憲に捕縛され、情報が連合国側に漏れた。 ●翌年2月18日、マンシュタイン案をもとに、フランス侵攻作戦が練られる。24日、「一刀両断作戦」が発表される。そのころヒトラー暗殺・クーデター計画があったが失敗。 ●1940年3月中旬、作戦準備完了。しかし、ノルウェイ海戦が勃発。懸念材料となった。

 005 英仏軍の対応 47 /●連合軍の陸軍総司令官はフランスのガムラン、海軍はイギリスが執った。メクレイン事件の情報をもとに、ガムランは、フランス-ドイツ国境で、ナポレオンが嫌う横列陣形でドイツを迎え撃とうした。

 006 ノルウェイ海戦 52 /●チャーチルが四半世紀ぶりに入閣し海軍大臣となる。ノルウェーの「鉄鉱石通路」を巡っての戦闘が行われ、結局、この陣取り合戦にはドイツが勝利した。オプション的な戦いで英国艦隊は完敗したが、ドイツ海軍巡洋艦8×駆逐艦20のうち、巡洋艦3×駆逐艦10を失う。このことが大西洋での制海権を失う結果となり、英国上陸ができなくなる原因をつくった。

     *

 第2章 西部大攻勢 5

 001 嵐の前夜――1940年5月9日 57 /●木曜日午後。天気晴朗。ベルリンのヒトラー専用列車〝アメリカ号〟出発。カイデル参謀長、コード名〝ダンツィヒ〟発動。ドイツ戦車師団出撃。越境時刻午前5時35分予定。〝座り込んだ戦争〟がここに終わる。

 002 出撃のとき 5月10日 62 /●夜、晴れてきた、ドイツ空軍オランダ攻撃開始。パラシュート部隊による一国占領。 ●グーデリアン麾下戦車部隊がアイエル山中からアルデンヌの森の道を抜け、ルクセンブルクに侵入。市内に入る橋梁はあらかじめ旅行者を装った自転車部隊が確保していた。 ●グーデリアン隊の北側ではロンメルがベルギー突破。ベルギーはアルデンヌ森林騎兵による橋梁爆破等の消極的な抵抗のみで砲火も交えず。 ●ヴァンセンヌ城館に拠るガムラン、ダイル川-ブレダ作戦発動。 ●フランス代一軍ブレダ騎兵兵団パニック。ベルイー側が約束していた防御陣がなかった。 ●BEF(英国大陸派遣軍)にブレダ川まで侵攻せよと命令がでる。 ●ドイツ戦車大集団、二日後、アルデンヌの森を抜けてミューズ川中流部の河畔に達する。迎え撃つフランス軍はコラップ将軍麾下代九軍、アンティジェ将軍麾下第二軍。――フランスにとってドイツのアルデンヌの森突破は想定外だった。バトル・オブ・フランス最初の干戈を交わす。  夜、フランスはアーロンを放棄してセモア川まで後退。 

 003 アルデンヌの森は騒ぐ 5月11日 71  /●撤退してきたフランス第二軍アンティジェ将軍がセモア川河畔の町ブイヨンに立ち寄り、ホテルを貸して欲しいと市長に掛け合うと、観光用であることを理由に断られた。 ●ドイツ空軍はフランス空軍基地を叩く。連合軍側空軍は、森林でドイツ戦車軍団を発見できず、当初、それがでてきた村落での爆撃を禁じられていたため、初期対応ができなかった。 ●フランス軍はドイツとの国境マジノ線にこだわるあまり北部の守備ががら空きになっていた。ドイツの思惑通りでヒトラーが感涙。 ●英国ではチェンバレン内閣解散しチャーチル内閣が組閣される。

 004 ロンメルの幸運 5月12日 77 /●ドイツ軍のグーデリアン将軍は、撤退するフランス第二軍を追撃、橋頭堡をブイヨン近郊dセモア川を構築して渡河。春の乾期で水深は浅い。 ●コラップ将軍麾下第九軍軽機械化騎兵部隊の戦域を、ドイツのラインハルト戦車兵団が抜く。アルデンヌの森での交通渋滞は難儀したが抵抗はまったくなかった。 ●コラップ将軍は想定外の大軍団に驚愕し、麾下の兵団を後方ミューズ川西岸まで後退させた。そのため、ドイツ側の侵攻は容易となったのだ。――この失策がドイツによるミューズ渡河作戦を許す結果となった。 ●フランス第二軍アンティジェ将軍麾下の軽機械化騎兵部隊は士気が劣悪で住人が避難した空家で略奪を欲しいままにしていた。昼、ドイツ戦車軍団がアルデンヌの森からでてくると、ミューズ東岸の仮設陣地を放棄し、ミューズ川両岸に拡がるセダンの町に退却、東岸地区から西岸地区に退却。 ●夕刻、グーデリアン戦車兵団はセダンの東岸地区に入る。 ●セダンの町は無人。ミューズ川に架かる橋は西岸地区にいるフランス軍により爆破された。 ●ドイツ側の自動車化工兵と最小限の自動車化歩兵到着し架橋作業開始。 ●夜、支援・予備戦力であった、無名の、ロンメル将軍(48歳)が単独で、古い堰の残骸を川中にみつけ、これを橋脚として架橋を構築、西岸地区渡河一番乗りの要因となった。オートバイ大隊が小規模な橋頭堡を築いた。 ●ロンドンとパリでは戦況が把握されなかった。 

 005 セダンの攻防 5月13日 85 /●ミューズ渡河作戦決行。 ●ロンメル隊橋頭堡拡大。本隊合流。 ●フランス軍・ベルギー軍。コラップ隊はドイツ空軍シュトーカー急降下爆撃機1500機による集中攻撃によって大打撃を被った。 ●午後2時30分、88ミリ高射砲によるトーチカ群集中砲火。 ●午後3時、ドイツ・ゴムボートで強行渡河し甚大な被害を受ける。ある部隊は3/50艘の成功率。 ●フランス第二軍は訓練不十分の中年部隊。そこに精鋭グーデリアンが本隊を率いてゴムボート渡河。 ●ロンメルを前に、「ジャンブールの通路」を守備していたフランス軍第一装甲師団司令官が疑心暗鬼にかられ動かず。崩壊。 ●フランドル戦線では……。ジロー将軍麾下フランス第七軍。オランダ・ブレダ方面からスヘルデ河口に撤退。ベルギー軍本隊もダイル川後方に退いた。BEF(英国大陸派遣軍)が守備する戦線では特記事項なし。 ●英国には前線の情報が届かない。チャーチルの演説。

 006 面舵いっぱい! 5月14日 99 /●セダンが突破された。フランス軍北部総司令官ジョルジュ、ミューズ川上流の異変に気づく。――ドイツ側の攻撃正面はフランドルではなくアルデンヌだ! ●セダンが突破されるとフランス兵は裏崩れを起こした。 ●午前9時、ロンメルは、とかできた30台の戦車をすべて引きつれ、オネイの占拠にむかい夕方に方をつけた。 ●早朝、ピヨットは第一装甲師団戦車150両をディナンにむけたがガソリンタンクローリーを守りながらの移動であったので時間がかかり連合軍側の致命傷となった。 ●ディナンの南70キロ、セダン攻防戦、防衛していた、グランサール将軍麾下第二軍がパニックで勝手に後退。 ●後方にいる友軍歩兵部隊は未到着。セダンを落したグーデリアンは、西50キロにあるルテルに進路を変え、攻略に向かった。 ●戦闘機および軽高射砲が大暴れ。ミューズ渓谷は「死の谷」に。鉄舟橋を何度も修理。 ●フランスの前線ではマジノ線にこだわって、この戦線の重要性は想定外で対処できなかったのだ。パリではミューズ戦線の詳報未到達。

 007 ブレイク・スルー 5月15日 110 /●午前2時、フランス軍ピヨット麾下コラップ将軍が後退する。そこで第九軍は踏みとどまるはずだったのが、崩壊。「戦車の道」ができてしまう。 ●午前7時半、レノーがミューズでの敗北をチャーチルに電話で伝える。チャーチルはフランスへ飛ぶ。 ●ロンメル、フィリップヴィルでガソリン補給中にフランス第一装甲師団発見。奇襲をかけたが深追いはせず、後続第五師団に引き継がせ、自らは西進しルテルを目指した。 ●80キロの戦線のうち北をロンメル、南をグーデリアン、中間をラインハルトが攻略した。 ●ラインハルトは、コラップの暫定防衛線を突破して一日60キロ走破の新記録をつくった。 ●フランスの最後の壁、ドゥ・ラトル将軍が後退しルトルの町へ撤退した。 ●夕方、フランス第九軍は建て直しのためコラップ将軍を更迭しジロー将軍を後任にした。 ●イギリス戦時内閣閣議。フランス・レイノー首相の50個戦闘機中隊派遣要請、本国防衛担当のダウディング元帥の反対で却下。試算では対ドイツ空襲防衛に、52個中隊要るのに、このときイギリスには36個中隊のみでフランスにこれ以上の援軍は遅れないとした。――ダウンディングの鉛筆がイギリス本土決戦に勝利をもたらした(A・J・P・ティーラー) ●チャーチル『第二次世界大戦回顧録』で25個中隊としてあるのは52の誤記であろうと著者はいう。 ●午後9時、フランスのガムランが首相に電話をかけ大敗北を告げた。 ●午前11時、オランダ降伏。

 008 チャーチル動く 5月16日 121 /●マスコミが連合軍とドイツ軍との優劣を逆転させて報じる。ヴァンセンヌ城館ヒステリック。 ●フランス政府の首都移転案。 ●パリ市民難民化。●チャーチルは、ケー・ドルセー街の外務省にむかう。5時半。レイノー首相、国防相兼陸相ダラディエ、ガムラン将軍が出迎える。装甲車によって突破されたこと、公文書類を老いた紳士が手押し車で庭に運び焼く姿。チャーチル『第二次世界大戦』 ●チャーチル、レイノー首相邸にやってきて戦闘機がくることを伝える。 日没後、総司令部ヴァンセンヌ城館パニック。 ●ドイツ軍の司令官グーデリアン、セダンを抜けて、モンコルネに達する。 ●ロンメル「アヴェーヌへの進撃」 地雷原を迂回、畑をゆき、トーチカ陣地帯突破。アヴェーヌを目指して走行。 ●マジノ線延長部分突破。 ●17日早朝、ロンメルは、アヴェーヌに到達した。ロンメルは1日80キロ走破した。 ●フランス第九軍、16日夜から17日朝にかけての戦闘で確実に蒸発。

 009 パンツァーはドーヴァー海峡へ 5月17日 134 /●チャーチルがレノーに六個戦闘機中隊を送ろうとしたが航空基地がドイツ空軍により破壊された。ダウンディング戦闘機隊総司令官が反対。 ●妥協案。英国南部からフランスを支援。航続距離500キロ。ミューズ渓谷上空制空権確保は不可能。 ●ドイツ戦車部隊パンツァーの大戦果でヒトラーがかえって周章狼狽。ヒトラーは歩兵師団を戦車回廊の南に張り付かせるように指示。 ●ドイツ参謀本部yハルダー参謀長はヒトラーの干渉を撥ね退け、マンシュタインの二段階作戦から、南北同時作戦に切り替える。 ●第一次大戦の将軍ルントシュテットのオワーズ川渡河を禁じる。ヒトラーが支持。 ●朝、グーデリアンはクライスト戦車集団司令官から停止命令を受け取ったが、セダンの橋頭堡が狭いため、占領地を拡大する必要があるといい、威力偵察と称し、前進を続ける。 ●フランスのド・ゴールが第四装甲師団長となり部隊編成に着手したところだった。ドイツの長蛇となった連絡線を切断しようと、ド・ゴールがモンコルネにむかうが、後方支援受けられず退却せざるを得なかった。●ジョルジュがド・ゴールを激励。ドイツがド・ゴールの戦術を使用していることを認識。 ●ドイツ歩兵師団。戦車通過後の空白地帯を占領。 ●ミューズ川を渡河したドイツ軍、セール、サンブル、オアーズ三河川の狭間にある地域を制圧。橋頭堡多数を確保。戦車回廊をなした。 ●フランドル戦線では……。連合軍撤退16日~17日、ドーバー海峡を目指す。ボック麾下のB軍団が追撃。 ●BEF、急降下爆撃に対し、機関銃の無力さを嘆く。 ●フランス首相レノーは、シリア駐在ウェイガン将軍、スペイン大使ペダン元帥を呼び戻す。

 010 戦車回廊の出現 5月18日 141 /●ドイツ軍戦車師団各隊は、一斉に邁進。ここから三日間、一刀両断の冴え。イギリスを孤立化させるため、パリを直接攻略するのではなく、ドーバー海峡沿岸都市攻略に主眼をもつ。ロンメルはルカトーの丘で三日間の休日が与えられた。戦車整備と兵士に睡眠。休暇後、20キロ先のカンブレー攻略を命じられるのだが、フランスは負け癖がついてしまい戦わずして撤退。 ●戦車回廊後方の寸断を危惧したヒトラーだが、ハルダーの命令が正しく黙らせた。 ●セダン南側地区の守備を担当していた、フランスの第二軍司令官アンティジェはセダンでパンツァーの一撃を食らい、驚き、持ち場を放棄してヴェルダン要塞に逃げ込んだ。 ●セダン南のストーヌ地区の第三装甲師団はかろうじて瓦解せずに維持。 エーヌ川後方でパリへの道を封鎖すべく編成した部隊も何もしない状態だった。 ●フランスの敗色が濃厚となったとき、レイノー首相はペダン元帥とウェイガン将軍を呼び戻す。ペダンは副首相に任命された。ガムラン将軍は降伏の話をきかされなかった。首相は元帥に汚れ役を押し付ける準備をしていた。

 011 鉄のファランクス 5月19日 148 /●第九軍団の新司令官ジローは、ピヨット軍団長からル・カトーへ退却するよう勧告を受けたが、戦場をさ迷ううちに部下ともはぐれ、ドイツ軍の捕虜になった。第九軍下級将校が首相宛の葉書。小銃で戦車では歯が立たないといって自決。 ●19日フランドル戦線。最北部にいたベルギー軍およびフランス軍がスヘルデ(エスコー)川左岸へ撤退を完了。その南にいたBEF婦人の南ではフランス第一軍が、コンデ・シュール・レスコーからヴァランシェンヌからぶーシャンをつなぐ推移路利用の防衛ラインを守っていた。そしてその南側を度0いつ戦車軍団が怒涛となって奔騰していた。  ●BEF退却。フランドルの無人になった古い町。商店の略奪。軍機が崩壊。しかし敵の砲弾で再び団結。 ●ドイツ戦車回廊は西に伸張。フランス側の消耗著しい。英国戦闘機260機がフランスにいたがダンケルク撤退線で本国に戻ってきたのは60機のみ。フランドル戦闘の10日で、英国は最新鋭戦闘機の1/4を損失した。 ●ドイツは後方支援で、天翔ける軍馬ユンカー輸送機(三機の発動機)を大量投入。 ●パンツァー前進は続く。 グーデリアン、第10戦謝し段を三社回廊の側面防衛のために残し、第一戦車師団および第二戦車師団には喘息前進を命じていた。両師団は北運河を綿りん、カンブレーからペロンヌからアムの戦場で停止。 ●ラインハルト麾下の第六戦車指弾および第八戦車師団は、グーデリアン兵団のすぐ北を進んでいた。ル・カトレ周辺で激戦を展開、19日の夜、グーデリアン兵団の横にきて露営を結ぶ。 ●ロンメルはカンブレーで大休止。アラス夜襲を上申。兵の疲労を理由に難色を示される。 ●さらに北側では、第五、四、三の順番で、ブランシャール麾下のフランス軍第一軍を圧迫しつつ先発隊に追随してきた。 ●夜。ドイツ千師団全軍がソンム古戦場に集結「5月19日のランデブー」。 ●ジョルジュ司令部にいたガムランが秘密指令第12号作成。しかしすでに遅い。 ●ガムランがヴァンセンヌ城館に戻ってきたとき、シリアから帰還してきた、ウェイガンが不意に現れ指揮官交替の命を首相から受けたと次げた。夜9時。 ●英国、事務レベルの陸海空三軍連絡会議で、カレー、ブローニュ、ダンケルクの三港を使い1日2000名ずつ撤退させる。港湾防衛司令官ラムゼイ中将を作戦指揮官とする。 ●ゴルトの司令部。パンツァーは兎、BEFは亀。ダンケルクにむかうしかないと結論。

 012 われドーヴァー海峡に達せり 5月20日 /●ウェイガン将軍がガムランの後任となり、マルヌ川沿いのモントリ-に総司令部を移転。前線に近い。ウェイガンはレノー首相に絶望的状況を伝えた。翌21日、前線視察を首相に伝える。24時間以内に戻れと命じられる「シンデレラの条件」。 ●19日夕、グーデリアン麾下戦車兵団にドーバー海峡にむけての檄。20日午前4時、第一戦車師団出発。 ●アミアン郊外の飛行場にドイツ戦車隊現る。英国戦闘機鼻先を慌てて飛び立つ。 ●同日朝、パリ北停車場からアミアン行きの列車運行があったがどこまで行ったかは不明。 ●正午過ぎ、アミアン中央郵便局屋上にハーゲンクロイツ旗がたなびく。 ●ドイツ第二戦車団の先頭部隊がソンム川河口近くにある百年戦争のクレイシイ古戦場近くで大西洋岸に達した。朝から100キロ走行した。 ●こうしてフランドル地区の連合軍100万の精鋭部隊は方位され、一刀両断のもとにフランス本土から切り離された。 ●英国本国で三軍連絡会議がラムゼイ提督主催のもとに開かれる。 ●英国軍参謀総長アイアンサイド(2mの長身)が、参謀長ボナールを伴って、フランドルの戦場に飛来。第一軍団長ピヨット、プランシャー第一軍司令官が放心状態。条件を飲ませる。帰りの飛行機を見送るゴルト将軍は、「フランス軍が動かない」と断言。現状を把握していないチャーチルはBEFに南へ逆襲しろと主張。


 第3章 ダンケルク

 001 アラスの反撃 5月21日 169 /●ドイツ軍によるフランドルの連合軍方包囲陣が完成。ヒトラーは戦車回廊側面強化を主張。ハルダーはボックのB軍団に掃討させ、戦車本隊はソンム川橋頭堡から南に討ってでるべしと主張。同日午後、フランドル地区に閉じ込めた連合軍の掃討作戦に落ち着く。 ●アラス付近。ロンメルの前にBEF第五師団長フランクリン少将が立ち塞がる。 ●現地で編成した「フランク部隊」は、戦車二個大隊、歩兵二個大体、若干の砲兵中隊。マチルダ戦車が一時はドイツ軍を20キロ押し戻すが衆寡敵せずで、それ以上の戦果はなかった。――だがこの一矢によって、ゴルト将軍に南進作戦の愚を教え、ゴルトはダンケルクに兵を引く。他方、ドイツ軍は戦車回廊危うしということになり、ヒトラーのいう戦車回廊側面強化の必要を再検討させることになり、連合軍側に時間を与えることになった。 ●フランスのウェイガンは「フランク部隊」の反攻作戦を知らされず、ブルージュからイープルに空路でゆく。ドイツ戦闘機を振り切り、ベルギー国王と会議「混乱した四時間」。自らの作戦案を伝え、爆撃で空港が使用不能となり、帰路は潜水艦となった。 ●このころ連合軍側の通信網は寸断状態。ウェイガンと入れ違いでゴルトがイープルに駆けつけた。ゆえに会議はできず、実行不可能な指令だけを受け取る。 ●ゴルト麾下の参謀ブリッジマン少佐は、ダンケルクの運河・水路を生かした、対パンツァー防御陣を構築し、撤退の時間稼ぎをする作戦案を練った。英国本国からの戦闘機支援。 ダンケルクは砂丘上に教会が建てられ、そこを取り巻く寒村が発展して要塞と港の町となった。スペイン→英国→フランス領となった。製鉄の町。当方に長い砂丘と海浜。遠浅の海。町周辺には河水路が四通八達していた。第一時大戦では前線に近く被害を受けた。 ●イープル会議直後、フランス軍随一と呼ばれたピヨット将軍は難民の群れを縫って車を飛ばし、トラックと衝突して二日のこん睡状態を経て死亡。フランス軍の士気低下。――飛行艇で大西洋横断、アメリカでリンドバーグ夫妻を訪ねたあとサン=テグジュペリはトゥールーズで飛行教官。前線転属を希望。オルコントの町の飛行場にゆく。偵察大隊大尉でアラスを偵察。その後、アルジェにゆき休戦除隊となった。 

 002 ウェイガン・プラン 5月22日 175 /●朝、チャーチルはパリに飛ぶ。晴れ。ヴァンセンヌ城。ウェイガンと会見。チャーチルはウェイガンプランを真に受ける。四半世紀要職から外れていたので、現状把握ができていなかった。ボーナルBEF参謀長は唾棄。 ●ベルギーから、難民を縫って、BEFのダンケルク撤退。  ●ラムゼイ中将は、ドーヴァーの白い断崖に居を構えた。ドーヴァ-城地下作戦室には、自家発電機が備え付けられ、ダイナモ・ルームと呼ばれていた。中将は本国艦隊の元参謀長で、海峡紹介の駆逐艦長もしていて海域を熟知していた。ここから対岸まで32キロ。ラムゼイ中将は「ダイナモ作戦」発動前、スタッフに、英国中の船舶をかき集め始めさせる。海軍省には駆逐艦、民間船舶を動員するように頼み込む。フランドルの海岸は遠浅で、小型船舶でしか往来できない。

 003 槌と鉄床 5月23日 182 /●アレキサンダーの「槌と鉄床」戦術。主力歩兵を鉄床に、騎兵を槌に見立てた。騎兵が敵を歩兵に追い込み、歩兵が敵を殲滅す作戦。(ハンニバルはこれを応用して包囲殲滅陣形を考案することになる)。ドイツはB軍団を鉄床とし、パンツァーが槌となって挟み込んだ敵を反復攻撃する。 ●ピヨット将軍交通事故死でフランスとの連携不可となった。チャーチルは反対したが、現場のゴルトは戦争担当大臣イーデンに現地視察を請い、ダンケルク撤退の腹を決める。 ●ロンドンの閣議。チャーチルはイーデンと昔、カンヌでルーレットをやった。チャーチルが大負けしかかったのだが17番で賭けて一発逆転。それが、「ここで17番をだそう」という言葉になった。 ●「フランク部隊」反攻失敗後、二日間パンツァー二個師団を相手に粘った。しかしロンメルがアラス背後に回って包囲網を構築しだしたので、やむなくアラスを放棄撤退。包囲網を突破してアラス北東25キロのデュール運河でBEF主力部隊に合流した。――これによって、南進反攻作戦「ウェイガン・プラン」が事実上中止となった。

 004 パンツァー、停止せよ! 5月24日 187 /●BEFのアラス撤退は連合軍内部で衝撃だった。しかもフランス側事前通知がなかったため、この方面でのフランス軍を危機に陥れた。レイノー首相はウェイガン作戦を履行しなかったゴルト将軍を非難しチャーチルに文句をいった。チャーチルはゴルトに激怒した。――連合軍は突破口を塞がれドイツ軍に包囲される仕儀となった。 ●しかしゴルト将軍の反抗は不発だったがヒトラーを用心させ戦車軍団を一時停める総統命令を出させるに至った。もう一つ、ゲーリングが功名心から麾下の空軍を割り込ませようとした。――ここで槌と鉄床との役割が反転。戦車軍団主体のA軍団が槌から鉄床に、大人数の歩兵B軍団鉄床が鉄床から槌となった。連合軍をダンケルクから撤退させる要因をつく大失策だった。ドイツ軍は貴重な3日間を失った。 ●「ゲーリングの晴天」から雨模様。天候に左右された当時の空軍。ドイツ空軍が動けない隙に英仏連合軍は窮地を脱した。 ●BEF・フランス第一軍の戦線はヘアピン形となり、ドイツ軍に包囲されていた。 ●「秘書類とブーツジャック」のエピソド。ブルックの目にとまった。

 005 ゴルト将軍の決断 5月25日 194 /●フランドル戦線ではじょじょにドイツ軍に包囲されてきた。ゴルト将軍がBEFの部下を救うためダンケルクへの撤退を決断する。ゴルトは長短の人格がああった。著者はアラスからダンケルクまでの陸路80キロ移動からダンケルク撤退作戦だという。アルマンティエールの町は被爆。 ●ニコルソン旅団3千がチャーチルの命によりダンケルクの西40キロにあるカレーの町を死守。 ●ニコルソンとチャーチルの交信がドイツに傍受。撤退準備がバレる。 ●パリ市民は地下鉄に篭る。マジノ線要塞師団は士気低下。ケ・ドルセーの竜騎兵の服装が乱れる。 ●フランスのウェイガン将軍は休戦という言葉を口にしだす。

 006 ダイナモ作戦発動 5月26日 202 /●チャーチルが戦況を次第に把握、陸軍省を通じ、ゴルトのダンケルク撤退を追認した。 ●アイサンサイドは3万人の撤退でよしとするところとみた。 ●午後7時ダイナモ作戦開始。艦船130隻。駆逐艦40隻(英国海軍の1/4)。 ●フランス首相はムッソリーニを介して降伏を模索。チャーチルは撤退に専念。 ●ドイツ参謀長ハルダーの日記。戦車軍団の停止に苛立つ。 ●2時半から3時、ヒトラーが参謀本部に電話をして戦車軍団移動を許可。ダンケルクを射程にせよ。ただし10数時間かかる。 ●その間に連合軍はダンケルクを囲む数十キロ先にある運河を利用し囲環陣地網を構築した。

 007 兵は多く、舟は少なし 5月27日 210 /●囲環陣地網、海岸線東西50キロ、奥行き南北10キロ。カレー陥落によってドーバー海峡を迂回するので距離が二倍になった。 ●第一日はダンケルク陥落のデマあり船舶が引き返す。その後、駆逐艦マルコム、モーターボートに会う。海岸の茂みにみえたのが人の群れと知る。接岸できない。桟橋ほか港湾設備は敵の爆撃でつかえない。テナント大佐2つの堤防を利用。空襲のない夜間に客船を接岸に成功。 ●水防団、ヨット組合のボランティアに声かけ。行く先は初め教えない。 ●モンティーことモンゴメリーは撤退街道を車両で移動。小陣をつくり、夜間撤退してくる友軍を交通整理した。 ●天候悪化、英国スピットファイアーを多数飛ばす。 

008 黒い砂浜 5月28日 218 /●フランス兵士気低下著しい。英国第二回以降の防波 堤接岸から飛躍的に撤兵が進む。万単位。するとフランス兵が怨恨。ベルギー降伏。フランス難民がベルギー難民を襲う。 ●チャーチルが英国議会で講和ムードを払拭。

009 ダンケルク囲環陣地網 5月29日 223 /●朝、霧雨。午後は晴れ。 リヒトフォーヘン空爆。テムズ川の遊覧用外輪船マクベス爆撃により海岸で座礁。 ●ラムゼイ指揮。駆逐艦新鋭艦の大半が沈む。 15隻の旧式艦のみ。 ●交通整理をしていた、第一次戦闘部隊、撤退街道をダンケルクへ。スコットランド隊はバグパイプを鳴らして行進。 ●グーデリアンの奏上。パンツァー部隊の総引き揚げ。囲環陣地網攻略に不向きなため。空軍が張り切っていた。 ●BEFに対しドイツの精鋭歩兵10個師団。

010 寄せ集めのアルマーダ 5月30日 229 /●海軍省はウェイク・ウォーカー少将を現地に。●現地で船舶が不足。英国中から舟をかき集め、エンジン、羅針盤の扱いに慣れた船長が船を操る。シィーアーネス港終結。29日午後11時第一船団、30日午前1時第二船団。以下怒涛の波となって続く。 ●濃霧霧雨。進路を間違えてドイツが落としたばかりのカレーに入港しそうな小船もあったが駆逐艦救援で助かる。 ●大学で土木専攻のライクリフト中尉はタンクローリーなどで仮設桟橋を築き効率化を図った。

011 「ともに手を携えての撤退」 5月31日 239 /●53000人兵士撤退。パリに飛んだチャーチル、レノー首相、ペダン副首相と会談。フランス兵も同数撤兵との妥協点。ゴルトも撤退。 ●ライクリフト中尉ら15名のカッターボートは貨物船に拾われる。 ●午前11時、ラムゼーよりウェイク・ウォーカー少将に至急伝。翌1日未明までに68000名を救出。 ●囲環陣地網の縮小。ラ・パンヌの海岸にでた部隊は待ちぼうけ。 ドイツB集団18軍キュヒラー司令官の掃討戦。 

012 空と海と陸と 6月1日 248 /●囲環陣地網内に英国兵4万、フランス兵10万。小要塞の抵抗。英国空軍出撃回数を減らして50機でメッサーシュミットを撃つ戦法に切り替え。 ●戦闘海域への往復で精神に異常をきたす者続出。各港湾から水兵を掻き集め任務続行。

013 「作戦は終了せり」 6月2日 252 /●駆逐艦10隻による最後の撤収。英5千、仏3~5万の予定。アレクザンダー司令官とテナント大佐も乗船。しかし防波堤に最後の船が接岸したとき誘導者なく海岸にかなりのフランス兵残留。300名乗船。

014 戦い済んで 6月3日~4日 257 /●駆逐艦マルコム最後の救出。かなり多くのフランス兵。 ●ドイツ兵市内突入。銃撃戦のなか出航。 ●帰還後列車で各地へ。軍の再編成。 ●午後2時半、海軍省はダイナモ作戦の終了を宣言。

015 帰ってきたぞ! 265 /●ブルックはロンドンのディル参謀総長に報告。駅に妻子が迎えに。アレグザンダーは陸軍省に報告。ヨットマンのボブは持ち主に小船を返し地下鉄で帰宅。

016 ダンケルクの総決算 267 /●救出兵士30万のうち英国兵225000。この時点で唯一の精鋭。本国に大砲500、重戦車200、軽戦車250のみ。 ●皮肉屋バーナード・ショーも好意的コメント。

     *

 エピローグ――そして「ヨーロッパの戦いは終わった /●フランス第三共和国は首都をボルドーに移した。レイノー首相はチャーチル案に飛びつき英国と一時連合政府をつくり戦争続行を望んだが他の閣僚が拒否。降伏を決断。ペダンを首相に指名。スペイン大使にドイツとの講和のセッティングを命じた。 ●チャーチルはスペアーズ将軍を特別連絡官として派遣。17日昼、帰りの飛行機に見送りにきて握手したドゴールを引っ張りあげ英国に連れ帰った。 ●22日、独仏休戦協定。 ●バトル・オブ・ブリテン。

     *

 あとがき /著者は若いとき欧州に滞在し戦跡をくまなく歩いた……。



*パリ-アラス180キロ 鉄道 パリの北北東

*オルコント-アラス260キロ 直線 オルコントの北北西

*オルコント-パリ200キロ 巴里の東



     ノート20170412

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