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もう一度妻をおとすレシピ 第7冊  作者: 奄美剣星
随筆・覚書
13/100

覚書/奄美でも判る哲学者カント ノート20170515

『星の王子さま』を遺書として世にだした、作家サン=テグジュペリが、安全な亡命先であるアメリカから北アフリカ・イタリア戦線に行ったのか。――その動機こそカントの〈崇高美〉=祖国愛だ。「大事なもの〈崇高美〉は目に見えない」となる。

 以前、『カント入門』なる本を読んだがさっぱり判らなかった。『星の王子さま』以下サン=テグジュペリの主要著書を読むと哲学者カントの名前がやたらとでてくる、いま手元に昔、中央公論社の世界の名著シリーズ『カント』があるわけだが、小さい文字がビッシリな上に分厚くて読む気がわかない。ゆえに、これを読む前に、wikiほか各ネット情報をかき集めてノート化してみた。

     *

 イマヌエル・カントは、プロイセン王国時代の東プロイセン(ケーニヒスベルク)で暮らし、西洋哲学の教鞭をとった、18世紀を主体に活動した哲学者だ。この人の思想は三時期あり、特に中・後期が重要で、カントの批判期と呼ばれている。批判期の主要著書は、『純粋理性批判』『実践理性批判』『判断力批判』の三批判書があり、第一、第二、第三批判書という異名がある。そこから、〈カント批判哲学〉とも呼ばれる。――批判哲学といっても、とても温厚な善人で、人をなじる人ではない。ゆえにその人柄〈いい奴〉ぶりを示すエピソドを各書で散見することになる。

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 第一批判書『純粋理性批判」』、神様の存在は外しておいて、何が善いことか要点を見極めつつ(理性認識の能力)、理性をどんな場面でつかうか、誰にでも納得できる、ルールづくりをするための、準備ノートとした。だからまだ形而上学(哲学)というほどのものではないと、カントはいっている。

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 第二批判書『実践理性批判』とは、道徳とは何かという問題に取り組んだ。純粋実践理性は、経験に関係なく〈意志〉を重視した道徳法則だ。カントは、「あなたの〈意志〉のポリシー(格律)が、誰にでも判るように、行動してみなさい」といった。これが「定言命法」だ。この定言命法こそが〈自由〉を表しているとした。ここで「二律背反」という用語がでてくる。――理性概念・理念 (Idee) は、人間の認識能力を越えている。理解もできないし、みえもしない、もちろん言葉として表現できない。――サン=テグジュペリ『星の王子さま』のテーマ「大事なものは目にみえない」となるわけだ。

 何が道徳(実践)的か? カントは、道徳が人間の理性からでてくるものだと確信した。だから、道徳は、快や欲望といった目的ではなくて、〈形式〉にあるとした。

 なぜ道徳は、快や欲望といった目的・経験ではないのか? 快や欲望は〈意志〉以上の動機・法則じゃない。快や欲望といった経験を土台とした行動は、自分だけ幸せになればいいというエゴイズムだ。しかも、「幸せって何だっけ」といったら、各人ごとに異なるじゃなきか! だから幸福の原理は道徳法則とはみなせない。別なものだ。

 例えば、通勤電車シートに腰かけているとき、お年寄りがきて席を譲ったとしよう。だがそれは道徳とは別のものだ。母親がいいことをすれば、お小遣いをあげるといわれた子供が、お婆さんに席を譲ったということでお小遣いを貰えた。大人なら席を譲ったことで良いことをしたという自己満足を得たいという気持ち、夏目漱石がよく物語のテーマにした、下品な人間の本性〈エゴイズム〉なのだ。

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 第三批判書『判断力批判』は、前半で美学を、後半で崇高や合目的性(目的論)を論じた。反省的判断力を、「現実をあるカテゴリーの下に包摂する能力」とし、これを美的(直感的)判断力と目的論的判断力の二種に分けた。この書は、その後展開される実践論、美学となった。

 趣旨は以下の通りだ。

 趣味判断は感覚様式に分類される。道徳の主幹〈善〉とは関係がない。趣味判断のうちの〈美〉は楽しいこと〈愉悦〉の対象、後の世にでてくる美学的な要素だ。美の判断という観点では、想像力と悟性インスピレーションは同じものだ。これと一線を画して、崇高や合目的性(目的論・理性)があるのだが、想像力と理性というのは、どうしても矛盾してしまう。

 ところが、崇高美なるものがある。感性という枠をはみ出した、純粋理性というもので、もっとも楽しいこと〈愉悦〉だ。その寵児が天才なわけだが、この天才たちが作品を発表していくうちに、流派といものをつくり、芸術世界にルールをこしらえた。美的芸術は、言語的・造形的・感覚遊戯的の三つがある。最高のものは(言語的)詩芸術であり、インスピレーション(悟性)・想像力の翼を広げる楽しいゲームだ。

 趣味判断は美的技術である。芸術において不可欠な条件になっている。だから、どんな天才も、趣味判断をマスターできない。もしも趣味判断と天才の2つが対立する事態が開生じたなら、天才が折れるべきだ。独創性(恣意的な概念作用)よりも、趣味(芸術の内実的な美的技術)のほうが、大事だからだ。

 科学(自然目的の概念)は法則的なものである。例えば一本の樹木を挙げてみよう、種をばらまいて、自分と同じ種を増やすではないか。科学とは、自然法則を見極めるの発見的原理でなっている。科学は何でそうなるの? という課題がまとわりつく。

 けれども崇高美〈美〉は、科学的なものじゃなくて、道徳的なるもの、メンタルなものだ。人間は、自然界の他の生物と違って、メンタルなものをもっている。道徳的本質、道徳的原理というもで、科学(真理)を補うものに過ぎないかもしれない。でも、崇高美は人間にとって彩りを添えるもので、人間であるために〈大事なもの〉だ。

   *

 サン=テグジュペリは、『星の王子さま』のテーマを、大事なものは目にみえないものだとした。これが哲学者カントの〈崇高美〉である。カントは真理の大枠を、海や山といった目に見える、自然法則に則ったものとしながらも、自然法則に則って生きる他の動植物と人間との最大の違いとは、人間にはメンタルな〈崇高美〉があるところだとした。〈崇高美〉は目に見えない。だから大事なものは目に見えない。

 サン=テグジュペリは44歳で亡くなる直前、亡命先のアメリカから、北アフリカ戦線に赴き戦列に加わった。アメリカがフランスを占領しているドイツに宣戦布告したからだ。祖国を取り戻せる。元々飛行士だった作家だが、そこで偵察機を与えられた。しかし最新鋭機をうまく扱えなくて壊してしまう。せっかくきたのに飛行禁止処分を食らった。それでも軍上層部にいた友人たちを動かして昔所属していた自分の家のような、フランス空軍偵察大隊2-33に戻れた。連合軍がドイツを押し返していったので、2-33大隊は、地中海に浮かぶ、イタリアに近い、フランス領コルシカ島に基地を移した。サン=テグジュペリの偵察機はそこからフライトして、故郷がある南仏海岸を撮影にいったとき、ドイツ空軍戦闘機にみつかって、撃墜されてしまった。

 サン=テグジュペリが安全な亡命先であるアメリカから北アフリカ・イタリア戦線に行ったのか。――その動機こそカントの〈崇高美〉=祖国愛だ。「大事なもの〈崇高美〉は目に見えない」となる。

     ノート20170515

   カント・ノート粗稿

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●wiki各要旨まとめ:

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【人物】

●イマヌエル・カントは、プロイセン王国時代の東プロイセン(ケーニヒスベルク)で暮らし、西洋哲学の教鞭をとった、18世紀を主体に活動した哲学者だ。

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【主張】

●カントの思想は3つの批判の書にちなんで批判哲学と呼ばれ3つ時期に区分される。

第1は前批判期:『純粋理性批判』刊行前、初期の自然哲学論考から就職論文『可感界と知性界について』まで。

第2は批判期(1768年-1790年):『純粋理性批判』以降の三批判書を含む諸著作。これ以降、後批判期を含めて批判哲学と呼ぶ。

第3は後批判期(1790年-1804年):第三批判『判断力批判』以後に刊行された著作および遺稿『永遠平和のために』も書いた。

   *

【前批判期】

●初期のカントは、ニュートンの自然哲学に関心をもち、ニュートン力学『引力斥力論』天文学にどっぷりと浸り、自らも論文を書き、星雲により太陽系が成立するという星雲説を唱え、銀河系が多くの恒星が重力により集まった円盤状の天体だと看破した。

●カントはイギリス経験論・ヒュームの懐疑主義に影響を受けた。それまで学んでいた、ライプニッツ=ヴォルフ学派の形而上学から脱した。その際、「独断論のまどろみ」「形而上学者の夢」あるいは「視霊者の夢」と呼んで、を経験にもとづかないとみなした。

●自然科学と幾何学の研究に支えられた経験の重視と、そのような経験が知性の営みとして可能になる構造そのものの探求がなされていく。

●カントはルソーの、肯定的な人間観――道徳哲学や人間論――に影響された。

●カントは、知性にとって対象が与えられるふたつの領域とそこでの人間理性の働きをあつかう『可感界と知性界について』を著わした。後年の『純粋理性批判』の構想が現れる。

   *

【批判期】

●カントが著した『実践理性批判』は、1788年に出版され、その三批判書(「純粋理性批判」、実践理性批判、判断力批判)の一部を占めるため、第二批判と呼ばれることもある。

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【第一批判/純粋理性批判】

●「認識する」とされる理性そのものは、理性からは認識できる範囲外にあることを原点とした。「コペルニクス的転回」を見せた。

●『純粋理性批判』は、理性認識の能力と適用の妥当性を、「理性の法廷」で、理性自身が審理し批判する構造を持っている。だから、それは、哲学(形而上学)以前に、理性の妥当な使用の範囲を定める哲学の前提作業とした。⇒いいかえよう、何が善いことかを認識し、理性を道徳的に使うため。「神が善の根拠に決まっているではないか」は通俗的。認識の可能性と限界をハッキリさせることで、誰にとっても納得できる・普遍的な、善の要点を見極めるのが目的だ。本書はそのための準備ノートだよとした。

●カントは、理性 がそれ独自の原理 に従って事物を認識すると考える。しかし、この原理は、経験に先立って理性に与えられる内在的なものである。そのため、理性自身は、その起源を示すことができないだけでなく、この原則を逸脱して、自らの能力を行使することもできない。換言すれば、経験は経験以上のことを知りえず、原理は原理に含まれること以上を知りえない。

●カントは、理性が関連する原則の起源を、経験に先立つアプリオリな認識として、経験に基づかずに成立し、かつ経験のアプリオリな制約である、超越論的 な認識形式に求め、それによって認識理性 の原理を明らかにすることに努める。

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【第二批判/実践理性批判】

●『実践理性批判』とは、真・善・美のうちの「善」だ。カントは本書で道徳をいかに規定できるかという問題に取り組んだ。

●純粋実践理性は、経験からは独立して意志を規定する普遍的な道徳法則をわれわれに与える。すなわち、「汝の意志の格律がつねに普遍的立法の原理として妥当しえるように行為せよ(定言命法)。カントはこの定言命法が自由)の表明であるという。

●思弁的理性は、実践理性の理念が感情に与える影響に対しては因果関係がない。同情から善をなすことは好ましいが、義務と責任とは、道徳的法則と我々との関係だから違う。

●快楽と義務とは決定的に違う。義務は、(社会からの)脅迫からくるものではなく、(自然)法則からくるものだ。掘り下げていけば、機械的自然から独立した自由な人格性だ。純粋実践理性によってわれわれは感性界(現象界?)と知性界(叡智・上智界?)に同時に属する。将来における人間の行為を正確に予見できても、なお人間は自由である。また法則に反する行為の弁護者は、彼自身の内なる告訴者である良心をけっして沈黙させることはできない。

●魂の不滅、あるいは永世の前提のみが、無限の進歩を可能とする。道徳論を幸福論とも名づけうるためには、宗教だけがわれわれに与えるところの最高善を促進すべき希望が必要となる。したがって認識理性の対象ではなく、したがって証明もされなかった神は、いまや実践理性によってそのような不死なる魂へ報償を与えるものとして要請され、体系のなかへ位置づけられる。自由・魂の不死・神、これらはみな証明されえず、認識の対象ではないが、しかし実践理性はこれらの概念を前提し、その上に己の法則を立てるのである。したがって次のようにいうことができよう―これらの概念は物自体に他ならない。

●原則はあくまでも概念の基礎の上に立てられねばならない。気まぐれは何ら人格に道徳的な価値を与えず、自己への確信を強めない。しかしこの確信なくしては最高善は実現され得ない。「わが上なる輝ける星空とわが内なる道徳律に対しては、つねに新しくされる感嘆と尊敬の念とがある。動物的な被造者としての私は、短い生命を与えられた後、自らを構成する物質を星に返さねばならない。しかし人格性においては、道徳律は動物性および全感性界に依存することのない生活を開示する。

   *

「人間的認識能力とその制約」

●伝統的な懐疑論は、認識の内容が人間の精神に由来することから、外界との対応を疑い、それを以て認識そのものの成立の妥当性を否定した。しかし、カントは、こうした認識の非実在性と非妥当性への疑問に対して、次のように答える。すなわち、経験の可能性の条件である超越論的制約は、すべての人間理性に共通なものである。したがって、その制約の下にある認識は、すべての人間にとって妥当なものである。

●ここでカントは、認識の制約以前にある「物自体」 と経験の対象である「物」 とを区別する。「物自体」は、理性を触発し、感性 と悟性 にはたらきかける。そして、それによって人間理性 は、直観 と 概念 とを通じて、超越論的制約である空間と時間という二つの純粋直観、および12の範疇 すなわち純粋悟性概念 の下に、自らの経験の対象として物を与える。

●しかし、これは一方で、人間理性はわれわれの認識能力を超えるものに認識能力を適用することができない、ということを意味する。すべての人間的認識は、超越論的制約の下に置かれている。したがって、伝統的に考えられてきた直接知や知的直観の可能性は、否定される。神やイデア(理念)といった超越は、人間理性にとって認識可能であるとした。そして、このような伝統的な形而上学とは対照的に、カントは、認識の対象を、感覚に与えられうるものにのみ限定する。すなわち、人間理性はただ感性に与えられるものを直観し、これに純粋悟性概念を適用するにとどまるのである。

●感性と悟性とは異なる能力である。そして、これらを媒介するものは、構想力 の産出する図式 である。また、感性の多様 は統覚 、すなわち「我思う」(デカルトのいうコギト)によって統一されている。しかし、理性には、自分の認識を拡大し、物自体ないし存在を把握しようとする形而上学への本性的素質 ) がある。このため、認識理性は、ほんらい悟性概念の適用されえない超感性的概念・理性概念をも知ろうと欲し、それらにも範疇を適用しようとする。しかし、カントは、認識の拡大へのこの欲求を理性の僭越として批判し、認識 されえないものはただ思惟する ことのみが可能であるとする。そのような理性概念として、神、魂の不滅、自由が挙げられる。

   *

「アンチノミー(二律背反)」

●理性概念・理念 (Idee) は、人間の認識能力を超えている。したがって、理念を認識し述語づけようとする試みは、失敗に終わらざるをえない。カントは、そのような悟性の限界を、4対の二律背反 する二命題の組み合わせによって示す。

●こうした命題は、反対の内容をもちながら、悟性概念の使用の仕方として適切ではないため、どちらも真である、あるいは、どちらも偽であるという結果に終わる。カントは、このような二命題間の矛盾を、論理的背反としてではなく、たんに悟性概念の適用を誤った、成り立たないものについての言述であることに帰せしめる。こうした二律背反命題としては事物の必然性と自由についての背反命題(第三アンチノミー)が挙げられる。これは、キリスト教において予定との関連で伝統的にしばしば問題にされた問いである。しかし、カントにおいては、因果性・必然性という純粋悟性概念を理性概念である自由に適用するがために、矛盾を来たすように見えるのであり、経験においては必然性が、それを超え出ている人間理性においては自由が成り立つということは、カントの批判の体系内では、双方ともに真なのである。

●こうした理性概念と人間理性の問題は、『純粋理性批判』の中では必ずしも十分に展開されず、『実践理性批判』で展開されることになる。

   *

「形式に着目する」

●カントの道徳論の大きな特徴は、ただ理性の推論にしたがって何が道徳(実践)的であるかを規定するところにある。

●カントは、人間の理性から直接導かれる道徳があるはずだ、という確信からスタートする。そして、道徳の本質は快や欲望といった目的ではなく、形式のうちにあるとする。

●なぜ道徳の本質を快や欲望に求めることができないのか? それについてカントは次のように主張する。

●快や欲望は経験的なものであり、意志を経験に先立って規定する法則とはなりえない。それらを土台とした行為は、自愛や自分の幸福に基づいている。しかし何を幸福と見なすかについては、各人で異なる可能性がある。それゆえ幸福の原理を道徳法則とみなすことはできない。およそ実質的な実践的原理は、がんらい実質的なものとして、すべて同一種類に属し、自愛あるいは自分の幸福という普遍的原理のもとに総括される。

 たとえば、電車のイスに座っているときに、目の前にお年寄りがやって来て、「疲れていてかわいそう、イスを譲ってあげたい」と思ってイスを譲ることは、カントからすれば道徳的ではない。それはイスを譲ってあげることで満足を得たいという気持ちに流された行為であり、エゴイズムの現われにすぎないことになるからだ。

   *

【第三批判/判断力批判】

●判断力批判とは、判断力に理性と感性を調和的に媒介する能力を認め、これが実践理性の象徴としての道徳的理想、神へ人間を向かわせる機縁となることを説く。

●純粋な趣味判断は、感覚様式における純粋な形式を把握する。善とは異なり、美は概念および関心をもたない愉悦の対象である。美の判断においては想像力と悟性とは一致する。これに対し崇高においては想像力と理性との間には矛盾がある。崇高美は、それとの比較において一切が小さいところのものであり、感性の一切の基準を超える純粋理性そのものにおける愉悦である。

天賦の才能である天才は、芸術に対して規則を与える。天才の作品は範型的であり流派をもつ。美的芸術は、言語的・造形的・感覚遊戯的に区分される。最高のものは詩芸術であり、悟性を実現するものとしての想像力の自由な遊戯である。

●美的技術である趣味判断は、芸術にとって欠くことができない条件として最も重要であり、ゆえに、いかなる天才といえども趣味判断を服属させることはできない。もしも趣味判断と天才の2つの特性が対立する場合に、どちらかが犠牲にならざるを得ないのならば、その犠牲はむしろ天才の側において生じざるを得ない。恣意的な概念作用よりも、芸術の内実的な美的技術すなわち趣味が決定的に優先されるのである。

●自然目的の概念は、構成に適した物質を適所に組み入れる。有機物においては何ものも無駄でない。また例えば一本の木は種族あるいは個体として自己を生産する。自然の所産においての目的の原理は、自然の特殊な法則を探究するための発見的原理である。全自然の理念は、原因はつねに目的論的に判断されねばならないという課題を課すものである。

●美はいわば道徳的なるものの象徴である。道徳的本質としての人間の現存は、みずからに最高の目的そのものをもつ。神の概念を見出したのは理性の道徳的原理であり、神の現存の内的な道徳的目的規定は、最高原因性を思惟すべきことを指示して自然認識を補足するものである。

   *

【備考】

●倫理学について、カントは、『実践理性批判』をした。それは、純粋実践理性、純粋理性がそれだけで実践的で、他の規定根拠からも独立すべきだとしている。人間は、現象界、叡智界に属する人格だ。ゆえに現象界を支配する自然の因果性だけでなく、物自体の秩序である叡智界における因果性の法則にも従うべきだ。このうち物自体の叡智的秩序を支配する法則を、人格としての人間が従うべき道徳法則とした。

道徳法則は、「なんじの意志の格律がつねに同時に普遍的立法の原理として妥当するように行為せよ」という定言命法とした。純粋理性によって見出されるこの法則に自ら従うこと(意志の自律)において純粋理性が実践的に客観的に実在的であることを主張し、そこから自由の理念もまた実践的に客観的実在性をもちうると論じた。道徳法則に人間が従うことができるということが、叡智界にも属する存在者としての人間が自然的原因以外の別の原因を持ちうる=自由であるということを示すとした。また、神・不死の理念は、有徳さに比例した幸福(すなわち最高善)の実現の条件として要請されるともした。

   *

●美学・目的論についてカントは、反省的判断力を、「現実をあるカテゴリーの下に包摂する能力」とし、これを美的(直感的)判断力と目的論的判断力の二種に分けた。これが『判断力批判』である。この書は、その後展開される実践論、美学となった。

   *

●政治哲学(『人倫の形而上学』の『法論』)において、カントは、ロックの社会契約説の流れに組し、自然法が支配し人々が物や人に対しての暫定的な自然権をもつという自然状態を想定し、その暫定的な権利を確定的なものへとするために各人は自然状態から抜け出し共通の裁判官を抱く国家を形成して社会状態へと移行するべきであるとした。だが、国家は他国間との関係において、上位の共通な権力を持たないと、権利を巡った競合を繰り広げる、自然状態(戦争)に陥る。では戦争をなくすにはどうすればよいか? 恒久的な平和状態へと近づくために、世界市民法と国家の連帯(国際連盟)が必要だとしている。

   *

●人間学について、カントは、「わたしは何を知ることができるのだろうか」「わたしは何をすべきなのであろうか」「わたしは何を望むのがよいのだろうか」「人間とは何だろうか」という4つの問題に対応する4つの分野があるとした上で、最後の問題について研究する学を「人間学」であるとした。人間学を体系化しようと試みた。

●歴史哲学について、カントは、人類の歴史を、理性によって幸福や完璧さを目指すことだとした。

●地理学について、カントは、場所的記述を行うのが地理学で、時間的記述を行うのが歴史学であるとした。そのうえで地理学を科学として扱い、講義を行った。

     ノート20170516

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