隠り世の少女(短編小説)
憂鬱だ、どんなに頑張っても、誰も見て見ぬふりで助けてくれないんだ。
そう、思っていた……
どこから来たのだろう。
雨上がりの教室、僕以外に誰も居ない夕暮れの教室。
「な、なんですか?」
少女はそう言って、困った表情を浮かべていた。
見覚えのない制服を身にまとったその体は、打たれたであろう雨でずぶ濡れになっている。
なんですかって、それはこっちのセリフだ。
でもどうせこれは夢だろう、そうに違いない。
だからわざわざ聞くこともないだろう。
そんなことを思いながらも、滴る水で足元に水たまりができている少女を見て見ぬふりすることが出来なかった。
仕方無く、なにか体を拭くものがなかったかとバッグの中を探しはじめた僕を、少女が引き止めた。
「体が濡れるのは慣れているから大丈夫です。」
濡れることに慣れている?
一体どんな環境で育ったのかと思って振り向いた瞳に映っていた少女は、先ほどまで露わになっていなかった小さな猫耳と尻尾をピョコピョコと揺らしている、可愛らしい姿になっていた。
いや、別に耳と尻尾があるから可愛いと思ったわけではない。
ただ、今まで考えていたことがなんとなく噛み合った気がして、少しだけ安心したのだと思う。
やっぱりこれは夢なんだと、そう思うことが出来る理由をみつけることが出来たというわけだ。
「こんなところで何をしているのですか?」
訝しげに聞いてくるその表情。
いや、それより君は誰なんだ……
「神様ったら、格好いい人だよって言うから来たのに、全然そんなことないじゃない。」
……
ひどい言われようだ。
あと神様ってなんだよ。
しかしこんな僕の気持ちを知ってか知らずか、彼女はずっとブツブツと独り言を言い続けている。
なんだかもうバカバカしくなって、何も言わずにボーッと見ていることにした。
「私ってこんな役割ばっかり。」
一体この少女は、何なんだろう。
珍しい夢は嫌いじゃないけれど、難解な夢は目覚めを悪くするだけだから、できれば避けたいところ……
「私の名前はましろといいます。神様にあなたのことを見てきてほしいと言われて、ここに来ました。」
はあ。
ましろという名前を聞けたのはよかったけれど。神様というのはどういうことなのだろうか。
この人は神の使いか何かなのか?
しかし、猫が使いになるというのは聞いたことがない。
「間一髪でしたね。何はともあれ間に合ってよかったです。」
どういうことだろう。
出会ってから掴みどころが少なすぎて困る。
「これ、お渡しいたします。バッグに入れずに、今日一日ずっと握りしめていてください。」
そう言って渡してきたのは、何も書かれていない質素なお守りだった。
……
知らない人から渡されるお守りほど、気味の悪いものはない。
しかし受け取る気がないと分かった少女は、ピチャピチャと足音を鳴らしながら僕の側まで来て、閉じていた手の中にねじ込むように、半ば強引にお守りを渡してきた。
「はいこれっ。今日一日だけですから。我慢してください。」
お守り。
これを一日持っていたらいい。
僕は夢の中でさえ、こんなに惨めになっていたのか。
ん?
夢の中でさえ……
心の中の僕が、こんな言葉を自然と声に出していた。
そして固く握っていたはずの手のひらが、少しだけ綻んだ気がした。
「思うところがあるようですね。」
そりゃそうだ、僕の人生思うところばかりで嫌になる。
なんでこんな事もできないんだろう。
なんでみんなと同じようにできないんだろう。
なんで……
いや、こんなことを考えても意味がない。
それくらい分かっている。
「いつまでもここにいては、あなたの人生が変わってしまいます。あなたがここにくるのは、まだまだ先のはずです。」
一体何のことを言っているのか。
ここはいつもと同じ教室なのに。
あれ……
「気が付きましたか?あなたは今日、なんの用事でどこへ向かっていたんでしたっけ?」
そうだ。
今日の僕は、親が強引に決めた大学の受験のために電車に乗ろうとして、それから……
「望んでいない将来のために頑張るのは、とても苦しくて勇気のいることです。」
なんで今まで忘れていたんだろう。
そもそも、ここはどこだ?
見慣れていたはずの教室だと、そう思って今まで疑わなかった。
それなのに、改めて見渡すと全く知らない空間だった。
なんで……
先程までの気持ちと空気感がガラリと変わった気がして、少しだけ緊張してきた。
「あなたはまだ、隠り世に来るべき人間ではありません。きっとこの先も輝ける未来が待っていますから。」
そう言って、少女はポカンとしている僕の背中に手を置いた。
「また何十年後かに会うことが出来たら、その時はちゃんとお空に送り届けてあげますよ。」
じんわりと背中が熱を帯びてきた。
「……でも、現世に戻ったらこの場所も私のことも忘れちゃうんですけどね。」
え?
先程までのツンツンとした声色から、急にか細くて淋しげな声に変わった気がした。
「またね。」
少女は僕の言葉を聞きたくないとでも言いたげに、意識をどこかに飛ばした。
「あれ?」
数秒前の自分は、何をしていたのだろう。
根拠のない幸福感と、これから行きたいと思わない大学の受験に行くという憂鬱感。
その両極端な感情を携えながら、最寄り駅の最前列でボーッと電車を待っていた。
一歩踏み出せば奈落の底に落ちるほど、行きたくないという感情の淵に立ちすくんでいた僕は、今にも前に出てしまいそうな憂鬱な気持ちだったはず。
しかし今は、心の何処かで光っている灯りが、僕を前に向かせようと奮闘している気がした。
なんだろう、このとっても暖かな気持ちは。
「ん、あれ?」
考えることに集中していて気が付かなかった、何かを握りしめている僕の右手。
なんだろうと思ってひらいてみると、その手には見覚えのないお守りとメモ用紙があった。
「落とし物拾ったっけ?」
そう思ったけれど、どうしてもその瞬間の記憶をたどることが出来ない。
「どうしよう。」
もう少しで電車が来てしまう。
この電車に乗らないと確実に遅刻してしまう。
帰りに届ければいいかと、そう思ってポケットにしまおうとした時、妙にメモ用紙が気になった。
「一緒に拾ったのかな。」
そんなことを呟きながら、少しの罪悪感とともに開いてみると……
「ーーーさんへ
本当はこんなことしちゃダメなんだけど、君の心にはまだまだ輝ける未来が見えてたから、ちょっとだけ応援させてください。今日の受験、頑張ってね!」
……
差出人不明の短い言葉。
心の奥がジーンと熱くなって、一筋の涙が出た。
「誰だよ、こんなこと……」
そう思いながら駅の外に目を移すと、とある黒猫と目があった。
ジッと僕のことを見つめていた猫は、微かに微笑んで何処かに消えていった。
完
次回更新は木曜日の予定です。




