第二話 公爵令嬢と王太子
ヴェルディエ公爵邸の庭は、初夏の光に包まれていた。
薔薇が咲き始め、噴水の水音が静かに響いている。
その庭を歩きながら、ミレイユ・ヴェルディエは空を見上げた。
王都の空は青い。
穏やかで、何事もないような空だった。
しかし今、王国は穏やかではない。
結界が揺らいだ。
その知らせは貴族社会にもすぐに広がった。
そしてもう一つ。
聖女召喚。
ミレイユは、軽く息を吐いた。
「……そうなりますよね」
呟きは、風に溶けた。
侍女が近づいてくる。
「お嬢様、王太子殿下がお見えです」
ミレイユは振り返り、穏やかに頷いた。
「お通しして」
応接室に入ると、すでにヴァレリウスが立っていた。
黒髪に紫の瞳。
落ち着いた雰囲気の青年。
アルヴェリア王国の王太子。
そして――
ミレイユの婚約者。
二人は幼い頃からの知り合いだった。
恋人というより、長年の同志に近い。
政治の話をし、王国の未来を語り合う。
そんな関係だった。
ミレイユは微笑んだ。
「お久しぶりです、殿下」
ヴァレリウスも軽く頷く。
「……久しいな」
少し沈黙が流れた。
ヴァレリウスはいつも冷静な男だ。
だが今日は、ほんの少しだけ言葉を選んでいるように見えた。
ミレイユは先に言った。
「聖女召喚が決まったのですね」
ヴァレリウスは目を伏せた。
「……ああ」
それだけで十分だった。
ミレイユは状況を理解する。
聖女は王家に嫁ぐ。
それが、この国の慣習。
つまり。
ヴァレリウスは静かに言った。
「ミレイユ」
「はい」
「婚約を……解消する」
部屋は静かだった。
外の噴水の音だけが聞こえる。
ミレイユは一瞬だけ目を閉じた。
そして、いつもの穏やかな笑みを浮かべる。
「そうですね」
ヴァレリウスは顔を上げる。
ミレイユは軽く肩をすくめた。
「王太子殿下には責任がありますから」
ヴァレリウスはしばらく何も言えなかった。
そして小さく言う。
「……すまない」
ミレイユは少し首を傾げる。
「どうして謝るのですか?」
「私は国を選んだ」
ミレイユは少し笑った。
「王太子ですもの」
そして、少し優しい声で言う。
「大丈夫ですか?」
その言葉に、ヴァレリウスは目を見開いた。
婚約を解消される側のはずなのに。
心配しているのは、ミレイユの方だった。
ヴァレリウスは思わず苦笑する。
「……君は変わらないな」
ミレイユは軽く首を傾げる。
「そうでしょうか?」
ヴァレリウスは言う。
「君は、理想の王妃だった」
ミレイユは少しだけ困った顔をした。
「それは褒め言葉として受け取ります」
そして二人は静かに立ち上がった。
長い婚約は、こうして終わった。
その日の夕方。
王城の廊下を歩きながら、ルシアンは窓の外を見ていた。
結界の揺らぎ。
ワイバーン侵入。
聖女召喚。
王城の空気は、ここ数日ずっと重い。
ルシアンはまだ十二歳だ。
だが王族として、何が起きているかは理解していた。
結界がなくなれば、この国は終わる。
そして聖女が召喚されれば――
王太子は聖女と結婚する。
つまり。
ミレイユ・ヴェルディエとの婚約は終わる。
ルシアンは足を止めた。
兄は、今どんな顔をしているのだろう。
第一王子ヴァレリウス。
真面目で。
責任感が強くて。
誰よりも王太子らしい兄。
ルシアンはよく知っている。
兄は国のためなら、迷わず決断する人だ。
だからこそ。
「……大丈夫かな」
小さく呟く。
兄は弱音を言わない。
けれど。
ミレイユは幼馴染だった。
政治の相談をしているのも知っている。
戦友のような関係だった。
だからこそ。
ルシアンは少しだけ心配だった。
その時だった。
「殿下」
後ろから声がかかる。
振り返ると、王宮の侍従が立っていた。
「第四王子殿下にお知らせがございます」
ルシアンは首を傾げる。
「僕に?」
侍従は一瞬だけ言葉を選び、続けた。
「ヴェルディエ公爵令嬢ミレイユ様の婚約についてです」
ルシアンの心臓が跳ねた。
侍従は静かに言う。
「本日、王命が下されました」
一瞬、時間が止まる。
「ミレイユ様は――
第四王子ルシアン殿下の婚約者となります」
ルシアンの思考が止まった。
「……え」
声が出ない。
侍従は丁寧に頭を下げた。
「以上でございます」
そしてそのまま去っていく。
廊下に残されたルシアンは、しばらく動かなかった。
頭の中が真っ白だった。
兄の婚約が終わった。
国のために。
そして。
ミレイユが。
自分の婚約者になった。
ルシアンはゆっくり壁にもたれた。
「……え」
もう一度呟く。
嬉しい。
ずっと憧れていた人。
子供の頃から好きだった人。
その人が。
婚約者。
でも。
「……いや、待て」
ルシアンは顔を両手で覆った。
兄のことが頭をよぎる。
兄はきっと平気な顔をしている。
王太子だから。
でも。
本当に平気なのか。
ルシアンは窓の外を見る。
「……兄上」
小さく呟く。
それから。
もう一度思い出す。
ミレイユの顔。
優しくて。
綺麗で。
いつも落ち着いている人。
その人が。
婚約者。
「……いや」
ルシアンの耳が赤くなった。
「いやいやいや」
顔を覆ったまま、しゃがみ込む。
「無理だろ」
十二歳の少年の心臓は、さっきから落ち着く気配がなかった。




