覚えていない約束
朝の学院。
春の空気は柔らかいが、まだ冷たい風が吹いている。
ミアナは、花壇の水やりの当番だった。
「さてと、水をやろう」
ジョウロを蛇口の魔道具にセットし、捻る—— その瞬間だった。
——バシャアアアアッ!!!!!
「きゃっ!? え、ちょっと、待っ……!!」
ものすごい勢いで水が噴き出し、ミアナは一瞬でずぶ濡れになった。
「……またやってる」
呆れた声が後ろから聞こえる。
振り向くと、腕を組んで立っている アルの姿。
「……また?」
「ミア、昨日言ったよね 『蛇口の魔道具が壊れてる』 って」
「……え?」
言われても、昨日の朝の記憶が何も出てこない
多分昨日も同じようにビショビショになったんだろうな
「......ミア大丈夫?」
アルは呆れた様子でため息をつきながらも、そっとミアナの袖に触れた。
——ふわりと温かい魔力が広がり、水気が蒸発していく。
「これでよし。……けど、もうちょっと気をつけて」
「……うん、ごめんね、いつもありがとう」
服は乾いたが、冷えた体の芯までは温まらない。
その後の授業は 魔法薬学 で、薬草の管理のために教室の温度が低く、さらに寒さが身に染みた。
(このままだと風邪ひいちゃう……)
いつもなら中庭でお弁当を広げるが、今日は食堂で温かいスープが飲みたい。
そう思うと、少しだけ気分が上向いた。
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昼休み。
食堂に入ると、熱気と出来立ての食事のいい香りが漂っていた。
(食べ物は美味しいんだけど、あまり好きじゃないんだよね、食堂って。落ち着かないし……)
それでも、今日は 温かいスープ という目的があった。
「ほら、あそこ空いてるからいこう」
アルが食堂の隅の席を指さし、二人はそこへ向かった。
「今日は何たべるの?」
「えっと……あ! クリームシチューがある!」
ミアナの表情がぱっと明るくなる。
「じゃあ、それにしよう。パンもついてるし、ちょうどいい」
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温かいシチューを口に運びながら、ほっと息をつく。
体が冷えていたから、じんわりとした温もりが広がって心地いい。
その時——
カツ、カツ、カツ……
食堂の入り口から、優雅な足取りでこちらに近づいてくる人影があった。
彼女の姿を認識した瞬間、周囲の空気が変わる。
食堂にいた生徒たちが、興味深そうにこちらを見つめ始めた。
「アルノイド・ハヴォルス様、ミアナ・ハルヴォルス様ご機嫌よう。」
ミアナは、スプーンを持ったまま一瞬固まった。
(……えっと、だれだろ)
アルが 即座に気づき、間を埋めるように口を開いた。
「エルデ・ゴーデルス公爵令嬢、ごきげんよう。この度はどのようなご用件でしょうか?」
アルの言葉で、ミアナも咄嗟に反応する。
「ゴーデルス公爵令嬢、ごきげんよう。」
エルデは、わずかに目を細めた。
(……? なんだろう、この反応)
「まぁ、丁寧にご挨拶をいただきまして、ありがとうございますわ」
エルデは扇を広げ、優雅に微笑んだ。
「先日、ミアナ様にお昼をご一緒しましょうとお誘いしましたのに、
お忙しかったのかしら? それとも……忘れてしまったのかしら?」
「……!」
その言葉に、ミアナの心がざわついた。
(……そんなどうしよう、全然覚えてない」
(約束してたらアルに言うと思うし……)
「ミアナは今日は教授に呼ばれていまして、申し訳ございませんがまた次の機会に誘っていただけると幸いです」
アルがさらりと話を流す。
エルデは少し考え込むような仕草をしたが、結局、それ以上は何も言わなかった。
「……では、またの機会に」
エルデは優雅に身を翻し、そのまま食堂を後にした。
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エルデが去った後、ミアナはスープのスプーンを持ったままぼんやりしていた。
「……アル、私、誘われてたのかな?」
「どうだろう、ミアのことだから、誘われてても忘れてる可能性もあるし、
そもそもエルデがどこまで本気だったのかもわからない」
「……なんだろう、この感じ……」
(何か、大切なことを忘れてる気がする)
けれど、それが何なのかは分からない。
「気にしなくていいよ、ミアが思い出さなくても、僕が覚えてるから」
アルの言葉に、ミアナは小さく息を吐いた。
(……そうだよね。忘れても、いつもアルが覚えててくれているんだよね)
気を取り直し、スープを口に運ぶ。
温かさが、心までじんわり染み込んでいくようだった。